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死屍累々の途


以下、『歴史とは何か』 E.H.カー著(清水幾太郎訳 岩波新書 2015.9.4再版)P48〜49より。

「私たちはしばしば歴史のコースを『進行する行列』として論じます。まあ、この比喩は結構なものでしょう。但し、この比喩に誘惑されて、歴史家が、聳え立つ岩角から四方を見渡す鷲やバルコニーに立つ重要人物のつもりになるようなことがないとしての話であります。それはとんでもないことです。歴史家もまた同じ行列の別の部分に加わってトボトボと歩み続ける、もう一人の影の薄い人物にほかならないのです。それに、行列がうねって、あるいは右へ、あるいは左へと曲がり、時には逆戻りするのにつれて、この行列のいろいろの部分の相対的な位置が絶えず変化しますから、例えば、一世紀前の曾祖父よりも今日の私たちの方が中世に近いとか、シーザーの時代はダンテの時代よりも現代に近いとか、そう言うことが多いに有意味かも知れないのです。行列―と一緒に歴史家―が進むにしたがって、絶えず新しい展望が開け、新しい視角が現れて参ります。歴史家は歴史の一部なのです。現に歴史家が立っている行列中の地点が、過去に対する彼の視角を決定するのです。この公理は、歴史の取扱う時代が彼自身の時代から遠く距っている場合でも同じように通用するものであります。」


ここでは使命あるプロの歴史家論だと思いますが、歴史に学ぶ一般人にも通じる話で、さらに歴史を、主体的に学んでいる自覚のない勉強家や評論家にも通じる。

私がひとり心の中で標榜している指針の言葉がいくつかあるのですが、
その中のひとつに、【死屍累々の途(みち)】というのがあります。

端的にいうと、頭でっかちで終わる道です。

ロジックはロジックであり、それ以上でも以下でもありません。知識をOUTPUTして活かさない、かつ自己を戒めない。

世の中、身近に頭の良い人、鋭い評論をする人、博覧強記の秀才はたくさんいます。しかし一生何も行動なく考えているだけでは、結果的に何も考えて居なかったひとと同じです。
身近でそういうタイプの人を見るといつも、「ああ、この人も死屍累々の途か」と心のなかで呟きます。

つまり歴史に学ぶとは、ひとつの見方として、死屍累々の途に向かって「進行する行列」に、加わらないことじゃないのかと、私は思っています。

悪い過去は繰り返してはならない。大きく言えば過去の戦争も繰り返してはならない。死屍累々の途に向かって「進行する行列」の人には、最近SNSが格好のツールのように思います。でもそこでは、いうほどの運動エネルギーは生まれない。日々膨大な言葉と時間だけが流れていく。

そう、時間だけが流れていきます。生身の体は老いていきます。

鍋島直茂曰く「利発は分別の花、花咲き実ならざる類多し」


今なにをするべきか、の問いは歴史家固有のものではありません。人間の普遍的な問いです。
ものを知っているだけでは死屍累々の途。

ちょうど読んでいた本のフレーズ「進行する行列」と、思考がリンクしたので珍しく語ってみました。私にとっての「今なにをするべきか」は、歴史関係では来年も現場企画の形として、ネット上ではなく現実社会に顕現します。毀誉は他人の主張です。


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