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知性とは、試されることである。


知性とは、試されることである。

人生における一つの答えとして、私はこの言葉を用意した。


「最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん。」

引用した古文は、道元禅師の『正法眼蔵』の要点をまとめた「修証義」からである。

今昔を一貫して、人間の命は一度きりであり、その上、いつ何が起こるか、何に出会うか分からないような不確実性・多様性・雑菌性の中を、日々生きている。

感情はどうあれ、生まれたら、死ぬまで生きていることになる。

それならば、まぁ少しでも良い人生を送ろうと思うのが人情。

すると、どうしても必要になってくるのが、知性だ。

しかし構えることもなく、これはとてもシンプルで、人間ならだれしも獲得できる本能的なものであり、人の人たるゆえんでもある。


「七歳の女流 (にょりゅう)なりとも即ち四衆の導師なり」 

(相手が7歳の幼女であっても、人として学ぶものがある)/ 「修証義」より

知性を磨くことは、学ぶこと。上記に有るような、やわらかい心で学ぶこと。

やわらかく学べば、種智が円かになってくる。


しかし、知性だけでは、足りない。

『知性とは、試されること』  

知性を磨くことは、生の源泉だ。そうしたら試されることとは、どういうことか。

人間には体がある。これが全てだ。運動せねばならぬようになっている。

もし人間が、”考えるだけ”で事足りるならば、自然の摂理上、”頭”の部分だけ存在すれば良かったはずだ。


残念ながら、首から下には体がついている。

口だけ動かす人は、一般的に、”口ほどにもない人”と揶揄される。

口ほどにもない人は、自分自身のことが学べていないと思う。

自戒を込めて、絶対こうならないように心がけたい。


この点においても運動に反映されることとなる。すなわち、「試されている」。 

生きて死ぬことは、未知の事象に試されることであり、宿命的に、受動詞である。


しかし、「試されている」と自覚することで、それは能動詞に変わる。
引き受ける時点で、能動だから。


ある日じんわり降って沸いたその確信が、私にとっての哲学である。




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