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#8 限界を迎えた心。 2度目の不登校に 【7年間の不登校から大学院へ】

 

 小学3年生から完全に不登校になり、そのまま小学校を卒業。
心機一転、中学への入学を機に教室への通常登校をしていた前編はこちらから。




はじめに

 小学3年生から完全に不登校となり、そのまま小学校を卒業した私。
そんな私が中学入学式から約1ヶ月間、みんなと同じように登校をしていました。


私が教室で授業を受ける様子は、クラスメイトから見ても、元不登校だったなんて疑いもしないほどだったと思います。



今までの記事では、心の状態についてそこまで詳細に触れてきませんでした。でもやはり小学校で半分以上もの期間を不登校として過ごし、さらに教室にすら行けなかった私が、中学で通常登校をするにはかなりの頑張りが必要でした。



夜に眠ると朝が来る。朝が来ると学校に行かなければならない。
学校から帰る道すがらも、すでに翌日の登校を考えながら足取りが重い。
宿題をしている間も、次の日の準備をしている間も逃げ出したい。


当時の私にとって、心が、魂が、安らぐ時間は眠っているときだけでした。
現実から逃げるように眠りの世界へ。
早く寝ると早く朝が来てしまうのに、でも逃げるようにして眠りにつく毎日。

眠っている間だけは、なにも考えなくていい、なにもしなくていいから。


私は毎日、逃げるように眠りについていました。

眠っているときが幸せだった。

そのぐらい当時の心は、苦しかった。



そんな状態で頑張っていたある日、ついに心に限界が来てしまい、逃げるように早退してからまた不登校へとなるまでの詳細を書き綴っていきます。




ゴールデンウィーク明けに体調を崩す


 
そんなふうに入学式から頑張って登校していたものの、毎日とにかく莫大なストレスを感じていた。

心が、というよりも魂が安らぐのは寝ているときだけで、その時間だけが唯一 現実から解放されるとても貴重な時間だった。でも朝が来るとまた学校に行かなければならない、夜に眠りにつくとまた学校に行かなきゃいけない朝が来る、それを永遠に繰り返す毎日だった。

今でも当時の日々を思い出すと、窮屈で苦しくなるような苦い思いが甦る。


もうあのときには戻りたくないな、と今でも強く思うほど、とてもしんどい日々だった。もちろんそれは私だけではなく、私以上に両親にとってもそうだったと思う。




 「サザエさん症候群」なんて言葉があるけれど、本当にその言葉の通り日曜日の夕方になると気持ちが沈み、どうやったら明日の学校に行かずに済むだろうか、なんて答えの出ない問いを繰り返し、真剣にずっと考えていた。

学校さえなければ、学校に登校さえしなくて良いのであれば私は幸せになれるのに、なんてことも真剣に考えていた。


月曜日の朝特有の湿った空気を吸い込むと、今でもたまに当時の気持ちが蘇って心がキュッと痛い時がある。

そのぐらい、とにかく学校に行くことが苦痛でたまらなかった。
そんな日々を過ごしていると、ゴールデンウィーク明けに体調を崩した。




一週間、体調不良で学校を休んだら もう無理だった


 
ゴールデンウィークが明けた頃、風邪のような症状があって体調不良で一週間学校を休んだ。でも休みながらもずっと「学校に行かなきゃ、これ以上休んだらまた行けなくなる」と思い、できるだけ早く登校することにした。



ただ、一週間経っても体調が本調子に戻らないため、インフルエンザなどの原因を疑ってお医者さんを受診した。結果はインフルエンザなどでもなかった。


「常に吐き気があって、息が上手く吸えない感じで、ずっと息苦しいんです」と伝えたけれど、実際に測ってもらった血中酸素の数値は正常だった。

おそらく風邪の一種か、ただの体調不良でしょうとの診断で、結局の原因は分からないままだった。


とにかく、これ以上休んだら授業にもついていけなくなると思って、そのまま重だるい体で3限目から登校することにした。





一週間ぶりの教室

 3時間目からの登校だったので、まだ休み時間で騒がしい廊下を抜けて教室を目指して階段を登った。

久しぶりに階段を登ったからか、心臓がやたらとうるさく、バクバクした。

制服の上からでもその振動が見えるんじゃないかと思うほどで、その後は鼓膜が詰まった感覚になり、周囲の音が少し遠く感じ始めた。周囲の音は遥か遠くてうまく耳に入ってこないのに、心臓の鼓動は耳のなかでうるさく響くような感覚。

まだ本調子じゃないから頭がボーっとする、しんどいなぁなんて思いながらも教室に向かう。


耳は、プールに潜ったときのように、あたかも水中にいるかのように全ての音がくぐもって聞こえた。でも、廊下を行き交う同級生たちのガヤガヤとした話し声や、すれ違って走り去るうるさい叫び声は耳を介さずに、直接脳内に響くようなそんな不思議な感覚を抱きながら、やっと自分の席に着いた。


座った瞬間に、すぐさま後ろの席の子が「大丈夫?」なんて声をかけてくれた。


机の引き出しに詰め込まれている一週間分の大量のプリントたち。使い方もわからない謎の理科の実験セットまでもが詰め込まれていた。



それらを取り出している間も心臓はバクバクとうるさいまま。
全然、息が整わなかった。
息を吸っても吸っても呼吸が浅いまま、酸素が入ってこない感覚。


筆箱を出す手もシャーペンを握る指先も小刻みに震えて、自分で止められない。



吐き気と震えを誤魔化そうとシャーペンを指に挟んで揺らしていたら、シャーペンのキャップが黒板の前まで飛んでいってしまったのを鮮明に覚えている。でも震えと吐き気で、それを取りに席を立ち上がることさえできなかった。三歩も歩ければ届く距離なのに。



そんないつもの自分とは全く違う感覚に焦りながら、焦れば焦るほど額からマスクにまで染み込むほどの大量の汗が噴き出してきて、その汗のかき方は、まるで頭の上でコップ一杯分の水を逆さまにされて、髪の毛の上を瞬時に水が流れ落ちるような、そんな異常な汗のかき方だった。


マスクを直そうと震える手で触ると、指でつまんだマスクからは汗がジュワッと溢れ出した。


一人で焦りながら、もう教室の雑踏にも耐えられなかった。




「吐き気があるので、授業中にお茶を飲んでいいですか?」

 次の授業の先生が教室に入ってきたので、私はこう尋ねた。

「吐き気があるので、授業中にお茶を飲んでも良いですか?」



体調不良になってから、必死に堪えていないと吐くのではないか、と思うほど謎の吐き気が家に居てもずっとあった。でもその吐き気は、なにか水分を取ると一時的に治ることがあった。だから、もうやばいと思ったときだけ授業中でも水筒のお茶を飲ませて欲しいとお願いした。


尋ねた相手の先生は、私が不登校だったことも、中学校でやり直したいと思っていることも理解してくれていて、個人的にとても信頼を寄せていた先生だった。


「こっそり飲むようにしなさい」

……なんて言葉を私は、心の内で期待していた。


でも返ってきた答えは、「授業中は絶対に飲んじゃダメだ、始まる前にでも飲んでおきなさい」とのことだった。



なんで? なんで授業中にはお茶すら飲んじゃいけないの?



ここで授業開始のチャイムが鳴り、「じゃあ授業を始めます、教科書の……」とそれから50分間、私は吐き気を堪えるのに必死で、異常なまでの大量の汗をかいて白シャツの背中はびっしょり、とてもじゃないけれど授業どころではなかった。



授業中、後ろの席の子からは肩をトントンと叩かれて「大丈夫? 顔、真っ赤だよ」と言われ、その数分後には「見るからに大丈夫じゃなさそうだよ」と声をかけられる始末。


私は教室に、いや学校に足を踏み入れてから、もはやパニックのような状態になってしまっていた。

いまにも吐きそうで、心臓はバクバクうるさく動悸がして、頭は熱っぽくクラクラする。堪えていないと、今にもバタンと倒れそうだった。


何ひとつ授業内容を聞けないまま、その授業が終わった。



次の授業は理科で移動教室だったため、授業の終了とともにまた騒がしい教室に戻り、すぐに教室の電気は消されて、みんなゾロゾロと理科室へ移動して行った。

みんな揃って一直線に次の教室へと向かうなか、私だけが逆方向に走って階段を駆け降りた。人混みに紛れながら、一人だけ逆方向に走っていた。

私は転げ落ちるように早退した。もう限界だった。



逃げるように、校内にある公衆電話から家に電話をして、校門を出た。
学校から一歩一歩遠ざかるその最中も「やってしまった、また行けなくなってしまう」とずっと考えていた。


いままさに起こしている自分の行動を自覚しながら、「もうやり直すことはできなくなってしまった」と確信していた。


学校の近くまで迎えにきてくれた母の無表情な表情が全てを物語っていた。



どうしよう、どうしよう、どうしよう、またできなかった、ごめんなさい。


最初で最後のチャンスを棒に振ってしまったことに、そして両親の目をまた失望と怒りと心配の感情が渦巻く目に変えてしまった自分に憤りを感じながら。


でも、両親にも先生にも迷惑をかけて、それら全ての原因は自分にあるという現実を当時の私はもうどうにもできなかった。


両親から何度も「みんなにどれだけの迷惑と心配をかけたら気が済むの! どうしてそこまで人を困らせたいの! なんで学校に行けないの!」と怒鳴られながら、それを聞きながら本当にその通りだなと、自分でも分かりながら、分かっていながらも私自身もどうすることもできなかった。



「ごめんなさい」と呟いたところで、自分がまた学校に行けなくなってしまった現実も、最初で最後のチャンスを逃してしまったことも、全ては変わらなかった。
私には、また変えられなかった。



自分でも学校に行けない明確な理由が分からなかった。


どうしたら良いんだろう、学校って一体なんなんだろう。


自分が学校に行けない気持ちは一体なんだろう、どうしたら良いんだろう、これらの考えを毎日繰り返すばかりで、そのグルグルから抜け出せなかった。


薄暗い部屋のなかで窓の外を見つめながら、また思い詰める日々。


みんなには普通にできること、学校に行くということが、ほとほと私にはどうしてもできない。

勉強が嫌なわけじゃない、友だちが嫌いなわけでもない、むしろ勉強も友だちと遊ぶことも好きだ。

なのに学校にはどうしても行けない。


こうしてまた「不登校」というレッテルを貼り付けて、生活する日々が始まった。


義務教育のなかで最初で最後の「やり直す」チャンスだった絶好の機会を私は逃したまま、ただ日々を生きていた。




行けなくなった後の生活


 
そんな感じで、また学校に行けなくなってしまった後の残りの一年はあまり記憶がない。何をして日々を過ごしていたのか。どう過ごして良いのかも分からず、引きこもるわけでもなく、外に飛び出していくわけでもなく、ただ日々を過ごしていたような気がする。


勉強に関しては割と早い段階で、自力で5科目を学ぼうとしても「自分だけでは無理だ」と悟ったことを覚えている。


どうにか学力だけは追いついていこうと思って教科書ガイド(教科書をさらに詳しく解説した、教科書の教科書みたいなもの)を本屋さんに買いに行って、自分で読み込んだけれど、分からないものは分からないままだった。

どこが理解できていないのかが、分からない状態だった。


いまの時代であれば、YouTubeやオンラインスクールなどで授業のようなものを視聴して学べるかも知れない。ただ、当時はYouTubeやインターネットもいまほど盛んではなく、すべて自力(母に教えてもらうの含めて)でどうにか勉強するというのは難しかった。



定期テストの問題用紙をテスト後に先生から渡されて、実際に家で時間を測って解いてみても全然解けなくて、みんなとの学力の差が日に日に大きく開いていくのを自分で実感していた。内心ではとても焦っていた。



先生やクラスの子がたまにポストに投函してくれる大量の授業プリントも、授業の進行とともに先生の言葉で埋められていたであろう大量の空欄は一つも埋められず、答えを持っていなかったから、何も分からなかった。



何が分からないのかすら分からない状態。

まるで当時の私そっくりそのままみたいだった。

大量の空欄を目の前にして、もうどこから埋めてゆけば良いのか分からなかった。



そんな大量の虫食いプリントは、たまに連番のプリントが抜け落ちていて、ノートに貼ろうにも揃わず、飛び飛びで貼るしかなかった。


学校に行けなくなった後、定期テストの範囲であるプリントすら持っていなくて、一度も問題の答えを知らずに家で解いた定期テストは15点ほどだった。
そりゃあそうだ、だって答えを知らないのだもの。


「学校に行く」という問題に対して、だれか答えを、もしくは解き方を教えてほしかった。私は、みんなが答えられる問題に対して、答えはもちろん、解き方すら分からなかった。





久しぶりの学校、三者面談


 
逃げるように学校から早退したあの日以降、再び教室に行ったのは三者面談のときだった。

放課後の時間帯であったため、校内を歩く生徒の数は少なく、運動場からは部活動の声が響いてきていた。そんななか母と二人で教室に向かうと、まだ前の時間帯の親子が面談中だったため、教室前のベンチで座って待つことにした。



すると、私が小学校のころから不登校だったことを知っている他クラスの女子2人組が廊下の向こう側から歩いてくるのが見えた。

その2人組は私の姿を見つけるなり、互いの距離を詰めて私の方をジッと見ながらヒソヒソと話をしながら近づいてきた。


私は小学校のときから、もうそんな視線にも反応にも慣れっこだったから、特に睨み返すこともなく目を逸らして向かいの壁を一点に見ていた。


でも隣に座っていた母は、その女子2人組の意味を持った視線に気がつき、ずっと睨み返していた。


その姿を私は隣で見て、まるで子ライオンを守る親ライオンのようだなぁと思った。


心強く感じるのと同時に心底、申し訳なく思った。



自分が迷惑をかけてしまっていること、心配をかけ続けていること、それらを痛いほど実感しながらも、また同じことを繰り返していることに対して「ごめんなさい」という気持ちでいっぱいだった。



その女子2人組は相変わらず私を見ながら、ヒソヒソと嫌な感じで話をしながら目の前を通過した。不登校児はそんなに珍しいのだろうか。そして、やっとどっかに行ってくれたと思ったら、廊下の端にたどり着いてからまたUターンしてきて、また同じように私に近づいてきた。

でもついに2人は、母の目線に気が付いたのか、少し気まずそうに目の前を今度は無言で目を逸らして通過していった。

そんな視線を受ける「不登校」の私、そしてそれを目の当たりにする母。

このとき母はいったいなにを感じて、なにを思っていたのだろう。





「進級はするよね?」 という先生からの最後の言葉


 中学一年生のとき、不登校になってから、担任の先生は会うたびに「無理しなくていいから」「頑張らなくていいから」「本当にもう無理しなくていいから」という言葉をずっとかけてくれた。

でも失礼な話だけど、当時の私のマインドではそんな気遣いの言葉も、迷惑だからもう家にいろっていうことなのかな、なんて受け取ってしまっていた。


どんな言葉をかけてもらっても、結局は自分でどうにかするしかない。

でももはや私にはどうにもできなかった。そんなところまでいってしまった。
あまり記憶もないまま、一年が終わろうとしていた。


中学1年生の3学期、担任の先生が最後に家に来たとき。
「聞かなきゃいけない決まりだから聞くけど、進級はする?」という言葉をかけられて、それに「はい」と自分で答えた。この質問は、出席日数があまりに少ない生徒には必ず聞かないといけない決まりらしい。


そうして私の中学1年生は終わった。




中学2年生になって担任の先生が変わった。

中学2年生のときの担任の先生は本当に熱心な人で、私が孤立しないようにと、教室以外で参加できる学校活動の方法をたくさん提案してくれた。

そんな変化が少しずつ起こり始める中学2年生編はまた次回に。


次回は #9 学校との接点を作り続けてくれた先生【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。



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