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#7 「やり直すんだ」と意気込んだ中学入学式【7年間の不登校から大学院へ】


中学入学までの日々を綴った小学生編はこちらから


はじめに

 今回の記事からは中学校編になります。

小学3年生で完全に不登校になり、そのまま小学校を卒業した私でしたが、中学入学という新しい環境になるタイミングで「もう一度やり直そう」と自分を奮い立たせて、中学では入学初日から通常の登校をしました。



クラスメイトのほとんどは、私が不登校だったことを知らない子たち。


そんなほぼ白紙の状態から、みんなと同じスタートラインで始められる新しい環境。まずは毎日、朝から下校まで教室で授業を受けることを目標に「これが最初で最後のチャンスだ」と自分を奮い立たせて、「自分の人生をやり直す最後のチャンスなんだ」と自分に言い聞かせて、中学校へと入学しました。


でもゴールデンウィークに体調を崩したことをきっかけに、また学校に行けなくなってしまいました。さらに、小学生のときより自分が大人に近づいている分、その深刻さや悩みはより深くなってしまいました。



両親も2度目の不登校に頭を悩ませて、この子は将来どうやって生きていけばいいんだろうと真剣に思っていたようです。


そんな日々をありのままに綴り、どこかの誰かがなにかを届けられたら良いなという気持ちで中学後編も書いていきます。




「やり直すんだ」と意気込んだ中学入学式

 公立中学校に進学したため、同じ小学校から上がってきた子もいたけれど、ほとんどは初めましての子たちばかりだった。

そのため、私が不登校だったことや保健室に通っていたことを知っている子も少なくて、これならば「不登校」というレッテルがない状態で、また新しくスタートを切れると考えていた。


義務教育のなかで、不登校から脱する最初で最後のチャンスなんだと、私の人生がかかった「やり直す」チャンスなのだと自分に言い聞かせて、この機会を逃したらもう学校に復帰するタイミングは無い、なんとか学校に行くんだと自分を奮い立たせていた。




入学式当日

 みんなより頭ひとつ身長が小さかった私は、ブカブカの制服に身を包み、まだ春の肌寒い気温のなか不安いっぱいで入学式に出席した。


入学式があった体育館では足元から冷たさに襲われて、さらに不安と緊張からくるものなのか小刻みに震えていたのを覚えている。


入学式後のクラスごとに別れてのオリエンテーションにもそのまま参加し、久しぶりに味わう教室独特の雰囲気を味わった。相変わらず、ひとクラスの人数が定員満杯で、さらに小学生よりもみんな体が大きくなっている分、狭い教室にギュウギュウに人が詰め込まれた空間に息が詰まりそうだった。


この感覚だ、と気がズドンと重たくなりながらも「もう後ろにチャンスはない」と必死に我慢して、絶対に3年間通うんだ!!と歯を食いしばって下校のチャイムをひたすら待っていた。



 入学後の一週間ぐらいはオリエンテーションや健康診断、学級委員決めのHRなど、給食もなくお昼で下校だったのもあり、なんとか普通に登校して過ごすことができた。

新しい友だちもチラホラとできて教室では挨拶を交わしたり、ホームルームでの班活動でも笑う機会が多くなったりと、そんな学校での日々を過ごしていた。

 


中学校に行くことは相変わらずしんどくて、心が辛かった。毎日、夜になって眠るのも朝に起きるのも恐かった。

でも嬉しいこともあった。それは、両親の反応だった。



不登校をずっと負い目に感じていた私は、日中に制服を着て通学路を歩くことや、帰宅時には母が満面の笑みで「おかえり!」と喜んだ表情で言ってくれることが、やっぱり嬉しかった。


また、父も晩御飯のときなどに学校での出来事を話した際には嬉しそうに喜んでくれて、実は私は一番それが嬉しかった。


正直、自分のためじゃなくて、両親を安心させるために学校に行きたいと思う気持ちの方が大きい時があった。


私が学校に行けなくなったことで、両親には計り知れない心配と迷惑をかけてしまっていた。それが本当に申し訳なくて、でもどうしても学校に行けなくて、そんな不甲斐ない自分をずっと自分で責め続けていた。だから中学生になって「ちゃんと学校に行っている」という事実が、自分のなかで肯定感を芽生えさせて自分の気持ちに繋がっていたのだと思う。


 不登校のときは、運動がてら近所を散歩をしていても「あれ? 学校は?ズル休み?」なんて近所の人に言われてしまうため、あまり出歩けなかった。そんな言葉を日常で頻繁に受ける度に、やっぱりみんなが普通にできていることができない自分は社会不適合者なのだと永遠に自分を責めた。



どこに行っても何をしていても、いつも「不登校」というレッテルが付き纏い、自己肯定感や自尊感情なんてものはすり減っていってしまった。そんなすり減ってしまった自尊感情はなかなか戻ってこないみたいだ。


正直に言うと、自分を責め続ける癖は大人になった今でもなかなか抜けない。





通常授業スタート

 入学式の一週間後、お昼下校の時間割が終わって通常授業がスタートした。

それぞれの授業内容には何とかついていくことができた。というのも、中学校には複数の小学校から生徒が集結してきていたため、最初の授業は低いレベルの内容から始まることが多かったから。


ただ、それでもやはり私にとって相変わらず一番しんどかったのは、連帯責任の形式をとった授業方法と、短時間で絶対に食べ切らなければならない給食だった。




連帯責任の漢字テスト

 小学校編でも書いたけれど、中学校においても、本来は個人で行えば良いはずの学力テストも全て連帯責任に絡めて行われていた。

一人だと勉強をする気が起きない子に合わせているのかも知れないけれど、そんなふうに他の人に合わせた授業方法がどうしても私には合わなかった。



たとえば、中学の漢字テスト。
それはクラス対抗トーナメントとして、廊下に全員分の個人結果が張り出されるスタイルだった。

とにかくクラス全員(40名)が、一人当たりの不正解の数は5問以内でなければならず、もしクラスのうち1人でも漢字テストで5問以上を間違えると、そのクラスは失格となる。

間違えた人が複数人いる場合はまだマシだけれど、たった一人のせいでクラスが失格になったときは、その子に非難の声が注がれていた。

こんな授業方式も、小学校編で書いた、地獄の「九九ゲーム」と「全員が飛び終わるまで絶対に終わらない大縄跳び」と同じだった。
環境が変わったと思っていたけれど、あまり何も変わっていなかった。



そして小学生編の最後で書いたように、当時の私はほとんど漢字が書けなかった。


だから広い範囲を一から覚えなければならず、さらに絶対に間違えちゃダメだと、毎回凄まじいプレッシャーでテスト前日には必ず気分が重たくなった。そして漢字テストを担当していた先生は、怒るタイプの指導をする先生だったから、それも相まってとても恐かった。

中学校でも、安心できる時間なんて一瞬たりともなかった。




泣きながら教室を飛び出してきた子

 入学して間もない頃の放課後、漢字テストを担当していた先生の教室まで漢字ノートを取りに行ったら、廊下に怒鳴る声が響いていた。どの教室からの声かと様子を伺いつつ廊下を進んでいったら、目の前の教室から泣きじゃくった生徒が飛び出してきた。



その子も私と同じように、その先生のところに漢字ノートを取りに来たようだったのだけれど、「漢字プリントを指定された方法でノートに貼っていない」ということで随分と怒られていたようだった。


随分と怒られていた、と一言で書いたけれど、その怒り方も投げかける言葉も凄まじいものだった。人格を否定するような言葉も、かけていた。



あれは中学1年生の4月初めの出来事だったから、その子のミスは1度目だったはず。
些細なミスを犯してしまうことは誰にだってある。どんなに偉い人でも、どれだけ注意深く何度確認していてもミスをしてしまうことはある。

「以後、同じミスを繰り返さないようにすること」と言って、2回目に同じミスをした際には指導する、という方法ではダメだったのだろうか、といまでも思う。


あの日を思い出すたび、13歳の子を、そこまで、教室を走って飛び出すところまで泣かせるほど、怒鳴りつけなければならなかったのだろうかと思ってしまう。



私が通っていた中学校は、そんなふうになぜかいつも廊下に先生からの怒号が飛び交っていた。

もちろん、やんちゃな生徒も多かったからある程度は仕方がないことなのだろうけれど、割と真面目な同級生が先生から怒鳴られ続けて泣いている光景をよく目の当たりにしては、「明日は我が身だ」と思って萎縮して、とにかく目立たないように自分を消すようにと過ごした。



一種の体罰 

 また、いまの時代では完全にアウトだけれど(そう願う)、宿題を忘れた生徒を先生が呼び出して、みんなの前に一列に並ばせて笑いながら定規でその生徒たちの脳天を叩いていく授業があった。一種の体罰だ。

さらに2回連続で宿題を忘れた子は、定規の角で叩かれていた。


黒板の前で、生徒の頭めがけて定規を振りかざす先生の姿に、私はまるで自分が叩かれるかのようにギュッと目をつむって、自分の席で自分の体を抱きしめる形で力を入れていた。

すると次の瞬間に「コン!」という高い音が自分の席まで届く。

定規の角が頭蓋骨に当たるそんな音は、いまでも思い出せるほどだ。


こんな教育が良いなんてことは決してない。



「教室」という狭い世界

 教室という場所は、こんなふうにとっても残酷な場所に簡単になり得ると思う。
それは、教室には先生以外に「大人」がいないから。

もしも、その怒号に関しても、定規で叩く件に関しても、だれか他の大人が目撃するなり知っているなりして「それは教育として良いのか?」と一言でも物申す人がいればと考えてみる。

教室内での先生という絶対的な存在に対して「ちょっと、」と意見を言う大人はいない。いまはサブの先生などがつくのかもしれないが、私が通っていた当時は一切いなかった。

だからこんなふうな教育方法が知らずのうちに続けられてしまうことがあるのではないだろうか。もしも先生が間違った指導を行い続けて、それに対して「ちょっと、」と言う大人が永遠にいないのであれば、もしかしたら、あの授業ではいまでも生徒を叩き続けていたのかもしれない。





漢字テストの話の続き

 そんな漢字テストでは廊下に張り出された成績表があるため、誰のせいでクラスが失格になったのかが一目瞭然になっていた。

だから当然、テストで間違えた子は「お前なにやってんだよ!」とクラス中から責め立てられていた。それを傍目に見て、もし自分が間違えたら、ああなるんだと思ったら恐かった。




人生において最初で最後のカンニング

 実はこの漢字テストで、私は後にも先にも人生で一度だけカンニングをしたことがある。


それは、漢字テスト本番で未回答の欄が5つもできてしまったときだ。


「どうしよう……あんなに勉強したのに思い出せない。どうしよう、これでもし私が落ちたらクラス中から責められる、どうしよう」と思ってふと視線を上げた。


すると、たまたま前の席の子の答案の一部が見えてしまった。

私はそれを自分の回答用紙の空欄にそのまま書いた。



後にも先にも、カンニングをしたのはこの時が最初で最後だ。

カンニングなんてしてはいけないことは重々に分かっていた。でももし自分が間違えたらクラス中から責められる……、ただでさえ学校に通うのに必死なのに、一度でも責められる対象になったら……という心境はそのぐらい切羽詰まったものだった。



毎回こんな形式で、下手したらいじめの原因にもなり得るような授業スタイルを採用する勉強方法がとてもとってもしんどかった。





連帯責任を用いた勉強方法について

 みんなで何かを協力して団結して一つの物事を成し遂げることは、ときにとても素晴らしい経験となり、そこから学ぶことも多くあると思います。

でも学校に通うことだけですでに精一杯だった私のように、重圧にさらなる重圧を上から重ねられては、それに押しつぶされてしまう子もいる。


学年や年齢も違うので比較対象にはできないかもしれませんが、のちに私が通えるようになる高校では、こういった形式の授業がなされることも、そんな勉強方法が強いられることも一切ありませんでした。ちゃんと個人を尊重した指導方法で、連帯責任や定規で叩かれることもありませんでした。


だからこそ私はその高校に通えたのかも知れません。
もっと早くに自分に合った環境を知ることができれば、と今でも思います。




勉強方法の強制

 例えば、テストでは連帯責任の形式の方がスリルやプレッシャーの強制感があって勉強へのやる気が起きる、という子はその形式を辿れるような勉強方法を。


その一方で、そんな連帯責任の形式より、個人戦で満点を目指すような形式の方が余分なプレッシャーがなくて集中できる、という子には個人戦でのランキングに参加できるようになるなど、そんな選択肢があれば……と思います。


勉強の面だけに絞った極論になってしまいますが、みんなが学生時代に目指す受験だってそれこそ究極の個人戦で、そこでは自分が自分自身のために積み上げてきたものを一人きりで発揮する形式になっています。


勉強は本当に、どんな方法や状況であってもやらない子はやらないし、逆に勉強をする子は、周りがどんな状況であれ勉強を頑張ろうとするものだと思います。

大学などではそれが顕著になってきて、なぜ大学にわざわざ来ているのか理解できないほど「楽単(楽勝で単位が取れる講義のこと)」を探して勉強をしない子もいれば、単位以上に必死で勉強を頑張る子もいる。

社会人として会社で仕事をする際でも、それこそ個人でやっていくしかないのに。

 

 宿題を忘れた罰として脳天を定規で叩かれたり、プリントの貼り方を一度間違えただけで、泣きながら教室を飛び出すまで怒号を浴びるような日々が、人間の心を強くするのでしょうか。


 


連帯責任には給食にも

 私は学校で物を食べるのがとても苦手だった。


元々、少食で食べるのも遅い私にとって、決まった時間内に決まった量を食べ切らなければならないことはとにかく苦痛だった。さらに私が通っていた中学校は「給食を残さない」ことをずっと維持して、そのことを誇っている学校だったからより一層とても厳しかった。


もちろん、給食を残さないことは素晴らしいこと。
私も外食などで食べ残しは一切しないし、もし残ったら必ず持ち帰って食べ切る。



ただ、学校の給食となると食べ残して持ち帰ることはできないし、最初から食べなければならない量も時間も決まっている。絶対に残しちゃいけないのなら、最初に自分で食べる量を調整させて欲しい。でもなぜかそれすらもしてはダメというルールだった。


ご飯のときに牛乳を飲み切らなければならない、それだけでお腹いっぱいになって気持ち悪くなる。班の子にあげようにも、他の子の分をもらったからもういらないと断られてチャイムが鳴ってしまい、結局お昼休みも給食のご飯を押し込み続ける。



どうしても食べきれず先生に「どうしても食べきれませんでした」と言いにいくと、心底嫌な顔をされて「他の子にあげるとかしなさい」と怒られてしまい、毎日の給食だけでも拷問のようで、しんどかった。


ご飯を食べることは大好きなのに、学校では一度も楽しく食べれたことはなかった。


 あと、中学一年生だからなのか、配膳ルールを守れていない! と先生が給食時間を押してずっと怒っていることがあった。その間はもちろん誰も給食に手をつけてはいけないので、先生が怒り終わってから食べ始めなければならない。


すると給食を食べる時間があと5分を切っているなんてこともあって、みんな一心不乱に給食を牛乳で押し込んで、ほとんどの子が食べ切らないままチャイムが鳴るなんてこともしょっちゅうだった。



もちろん私はとびきり食べるのが遅かったため、お昼休みに突入してみんなが遊んでドタバタ走り回る騒がしいなか、いつも教室の隅で食べ続けて、なんとか授業が始まる前までに給食室まで食器を持っていっていた。

給食室に自分が食べ終わった食器を持っていく頃には、休み時間の終了を告げる予鈴がもう鳴っていた。
「食器が揃うの、あんたのクラスだけいっつも遅いよ!」と給食室のおばちゃんにもよく怒られた。ごめんなさい、私が原因です。


やっぱり私は、学校に普通に行くことがほとほと出来ないらしい。


毎日、心のしんどさを感じながらも、絶対に不登校には戻らない! という気持ちだけでなんとか通い続けていた。だけれど、ゴールデンウィークあたりで体調を崩した。

でもなんとか学校に行かないと、また学校に行けなくなってしまうという恐怖心から、体調が優れないまま一週間ぶりに学校に登校した。

そして前よりももっと学校に行けなくなった。



その詳細はまた次回に。

次回は #8 教室に居られない、体からのSOS【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。

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