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歴史・人物伝~松陰先生編⑰「死して不朽」の人生だったのか?

歴史・人物伝~松陰先生編の第17回です。

吉田松陰は、かつて弟子の高杉晋作に「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」と教えました。安政の大獄で死罪が決まり、死が現実となった松陰の心境は教えの通りだったのでしょうか?

大革命を見通した先見の明

処刑直前の松陰は「思い残すことは何もない」と言っています。自身の「思い」は、弟子や関係する人々に伝えたと思っていたのでしょう。後は、彼らがその「思い」をどう生かしてくれるかだけです。

松陰の唱えた「草莽崛起(そうもうくっき)」には、「幕府や藩、武士といった支配階級は頼りにならない。在野の人々が立ち上がり、新しい世を作っていくべきだ」との思いが込められていました。

幕末に活躍した長州藩の久坂玄瑞、伊藤博文、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎といった人々は、すべて「草莽」の出身です。代表的なのが、長州藩主力部隊となった「奇兵隊」でした。

明治維新は、支配階級の転換という日本史上屈指の革命でした。「草莽」すなわち在野の人々が立ち上がったからこそ、新しい時代が築けたのです。松陰は、それを見通していたのかもしれません。

親思ふ 心にまさる 親ごころ

松陰が、家族宛てに出した手紙に次のような句が書かれていました。

親思ふ 心にまさる 親ごころ けふの音ずれ 何ときくらん

この手紙は、死罪を言い渡された松陰の「遺書」です。後事のことだけでなく、両親に対する先立つ不孝へのおわび、家族への感謝が綴られ、松陰の深い愛情が込められています。

句は「子供が親を思う心より、はるかに大きい親が子を思う心。私が死罪となったことを聞き、さぞやお悲しみになっていることでしょう」との意味が込められ、詠んでいて胸が熱くなります。

私は「松陰は心残りだったのだろう」と思っています。決して「死して不朽」ではなく、最後まで「生きて大業」を目指していたのだろうと・・・。松陰の無念の気持ちが伝わってくるような気がします。

松陰先生編の最後に、松陰が残した「留魂録」について明日書きたいと思います。




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