見出し画像

[小説] リーラシエ ~月齢7~


月が半月くらいになっても、嵐はまだ続いていた。とはいえピークは過ぎ、風雨は弱まってきていた。明日には嵐は過ぎ去りそうだ。

「ミャン。」

「おはよう。」

ディアナは慣れた手つきで猫を撫でた。ここに来て一週間ほど、猫とはずいぶん仲良くなった。

「おはようございます。リーラシエさん。」

「おはようございます。」

リーラシエとも初めに比べれば親しくなった。挨拶をしても話しかけても、リーラシエは俯きがちに言葉を詰まらせていたが、ようやくまともに会話できるようになった。

そろそろ聞いてもいいかもしれない。

「用意ができました。朝食にしましょう。」





「いただきます。」

湯気が立ちのぼるスープを前に二人は手を合わせた。食材に、大地に、太陽に感謝する。

この習慣は珍しくはない。かつて食料が不足していた、あるいは今も十分とはいえない地域や自然崇拝が行われている地域などでごく普通に根付いている。

しかし、リーラシエは一体どこで知り得たのだろう。故郷だろうか。そもそもリーラシエはどこで生まれ育ったのか。ここか別の場所か。猫とはいつから交流があるのだろう。ディアナはリーラシエの過去について一切知らない。

一時滞在の旅人ならば、それが自然だ。しかし、ディアナにはやらなければならないことがある。あの子を探す。村で虐げられ、村を去ってしまったあの子を探す。

背丈や顔は変わっているかもしれないから、姿形だけではあの子かどうか判断できない。だから過去を聞く必要がある。どうしてここにいるのか、故郷はあるのか。故郷はどんなふうだったのか。

「リーラシエさんはいつからここに住んでいるのですか?」

ディアナは単刀直入に聞いた。どんな答えが返ってくるか、どきどきしながら待っていたが、返事はない。

踏み込んだことを聞きすぎただろうか。気分を害してしまったらのなら、何か気を紛らわせることを言わなければ。冷静を装っている外見とは裏腹にディアナは内心あたふたしていた。

「わからないんです。」

「え?」

唐突にリーラシエが口を開いたかと思うと、予想だにしない答えが返ってきた。

「いつからここに住んでいるのか、わからないんです。」

「記憶喪失ですか?」

リーラシエは力なく首を横に振った。

「自分の故郷や両親など、出生に関わることだけ思い出せないんです。」

リーラシエはひどく困惑した様子で顔を歪めた。ディアナは悪いことを聞いたような気がして、後ろめたく感じた。

「ごめんなさい、変なことを言って。」

リーラシエは申し訳なさそうに目を伏せた。

「いいえ、こちらこそ踏み込んだことを聞いてしまって、ごめんなさい。」

ディアナも申し訳なさそうに頭を垂れた。

「…でも、もし知り得るなら、知りたいです。自分の過去について。」

リーラシエの声音が変わった。先ほどの弱々しさは微塵も感じられず、代わりに強い決意のようなものを感じた。

「昔訪れた町で、特定の記憶だけを失くした人に出会いました。その人は特定の記憶に関することで強いショックを受けたそうです。」

リーラシエは無意識にその人と自分を重ね合わせていた。

「その人は何度も思い出そうとしましたが、上手くいきませんでした。しかし、パートナーの優しさに触れたとき、記憶の一片を思い出しました。その人はパートナーとの温かな日々を紡ぐうちに記憶を徐々に取り戻し、ついに全ての記憶を蘇らせることができました。」

リーラシエは何も言わず、ただただ目を見開いた。

ショックと記憶。

優しさで蘇る。

思考を放棄しそうな頭でディアナの話を反芻する。

「覚えていることを話すことで頭の中が整理され、過去への道筋が見えてくるかもしれません。人間関係でのショックなら、人の優しさに触れることで思い出すかもしれません。」

リーラシエは一筋の光を見たような気がした。

「…話し相手になってくれますか?」

リーラシエは頬を赤らめてディアナの方をじっと見た。静かにディアナの言葉を待っている。

「私でいいのですか?」

リーラシエが小さく頷く。

「私はここに来てから誰とも話したことがありませんでした。猫に話しかけることはあるけれど、人間のように言葉で返してはくれません。それで充分だと思っていたのですが、本当はずっと人と話したかったのかもしれません。ディアナさんが来てから、心に火が灯ったようでした。」

ディアナは弾かれたように感じた。リーラシエは旅人である自分を疎ましく思っているとばかり思っていた。猫との平穏な暮らしを乱す邪魔者だと。

「人と話すのが怖かったんです。侮辱されるのではないかと。でも、なぜかディアナさんなら受け入れてくれるような気がするんです。」

リーラシエはまっすぐにディアナを見た。

「私の秘密、見てくれますか?」

「はい。」

ディアナは強い目でリーラシエを見返した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?