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第15話:ごはんとおみそ汁は冷えててもおいしい。ミニマムはエシカルの条件だ。

「ほかほかのごはん。ほかほかのおみそ汁。」
文字としてこう書くだけで、体の真ん中あたりがじんわりあたたかくなる感じがする。白熱灯に照らされ、しきりに湯気を立ちのぼらせる2つのお椀が自然と目に浮かぶ。何ならちょっとよだれも出てくるかもしれない。
食の原風景。そう言ってもいいと思う。

ステレオタイプ・ルーティーン・あたりまえ、なぜ生じるか

でも、「ほかほかのごはん」「ほかほかのおみそ汁」。
「ほかほかの」という言葉は、ごはんとおみそ汁をただ修飾しているに過ぎない。けれどこうした、いわばお決まりのフレーズを何度も見ているうちに「ごはん=ほかほか」「おみそ汁=ほかほか」と思えてきてしまう。

「きれいな女性」「たくましい男性」。
このフレーズもよく見かける。でも何度も見ていると「女性=きれい」「男性=たくましい」と簡略に等式化して脳にインプットされる。しまいには、そうではない女性・男性が勝手にマイノリティ化され、何となく排除の方向に向かってしまっている気がする。
こうした現象は、きっと言語学的か心理学的に何か名前がついているに違いない。ついていなかったらわたしがつけてみよう。【ほかほかごはんステレオタイプ】はどうだろう。
…ネーミングセンスがどこかに売っていたら、言い値で買います。

ルーティーンが環境負荷を生んでいる

でも、ごはんがほかほかじゃないシーンなんてたくさんある。
まずお弁当。冷めていて当然だ。


そしてライスプディング。あまり食指は動かないけれど、りっぱなごはん料理だ。
ほかほかじゃないおみそ汁、宮崎県の「冷や汁」。スペインのガスパチョ。全部もれなく冷たい。

だから、わたしも【ほかほかごはんステレオタイプ】から脱却することにした。
ごはんもおみそ汁もほかほかじゃなくてもいい。

実際やってみたら、あたため直さないごはんもおみそ汁も、じゅうぶんおいしかった。
湯気の出ないお椀はシーンと静かで、何だか変な感じもした。
でも実は、温度によって強く感じる味覚が変わるから、ふだんと違う味わいのごはんとおみそ汁を楽しめていた。

ふだん何も考えずにごはんもおみそ汁もあたため直していた。電子レンジを使ったり、ガスレンジを使ったり。
朝起きたてのひどい思考の時に行う、ルーティーン化された作業としてのあたため直し。
でもそうやって何も考えずにエネルギーを使い、結果的に環境に負荷をかけていたのだなと思う。

夏野菜が大量に手に入った時に必ず作るラタトゥイユも、あたたかくない方がおいしい。
だしでさっと煮たいんげんも、ひじきの煮物も、ごま和えも、だいたいのものは冷たくてもおいしい。
(じゃがいもや動物の脂の入った料理は、冷えていると食感が好きになれないけれど。)

「ほかほかがおいしい」のは幻想、ステレオタイプなのだ。

必要ないことであふれていた。ミニマムになって気づいたこと

やるのが当然と思っていたことが、実は不必要だったなんてこと、よくある。
それはコロナを機に、多くの人が仕事も人間関係もミニマムになったから気づいている人も多いと思う。
LINEのやりとりで、最後にスタンプを必ず押してから終了すること。
月イチ恒例のママ友ランチ。
ばら売りの野菜を、備え付けのビニール袋に入れてお会計に持って行くこと。


エシカル=自分も他人も尊重すること


「あれ、これいらなくない?」という気づきが降ってくるのはいつも突然だ。誰かと話したことがきっかけだったり、怒りにまかせて降ってきたり、失敗から湧いてきたり。
でもその気づきを大切にすること。そしておもしろがってすぐ試してみること。そうやってひとつずつ習慣にして手放すこと。
こうして自分に向き合い自分に最適なミニマムを発見することは、すなわち自分を尊重することだ。
それは他人をも尊重することにつながる。
それこそエシカルだ。
エシカルって消費だけの話ではない。自分がこの複雑な社会の中で、どんな芯をもって生きるか。その芯を腹に据えてどう他人や社会と接していくか、生き方そのものの話でもある。
自分を尊重できない人が、他人を尊重することはできない。
だから自分に最適なミニマムを知っていることは、まわりも大切にできることであり、それはエシカルの条件なんだと思った。

名前をつける。心に留める。

わたしが【ほかほかごはんステレオタイプ】という(げんなりするような)ネーミングをつけたのは、こうした気づきを逃さないようにするためだ。
この心の動きを記憶の引き出しに入れるとき、引き出しに書いておく名前が欲しかった。
これは、それくらい心に留めておきたい、わたしの発見なのだ。

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