「それでも、人間の力を信じるか?」という哲学:劇場版PSYCHO-PASS PROVIDENCEネタバレ有り感想
PSYCHO-PASSとは、生き方を問うアニメである。
生き方を問うということは、哲学である。
つまり、PSYCHO-PASSとは、哲学である。
「万人の万人に対する闘争」の時代で。
AIが人間より「合理的」で「効率的」とされる時代で。
それでも人間は、法を信じるべきか?
それでも、人間の力を信じるか?
PSYCHO-PASS1期で突き付けられた問いを、10年の時を経て、再解釈し、再定義し、再構築し、そしてその答えを2023年に出来得る最高の形で再提出したのがこの映画だった。
法とは、”ちから”である。
法とは、人間の血から、そして人間の智から生まれ出た、「人間の力」である。
人類は長い歴史の中で、あまりにも多くの血を流してきた。その血はすべて、法による支配/法治国家の樹立という「流れる血の量を最小化するためのシステム」の確立へと向かって流れてきた(あくまでも結果論ではあるが)。人間は血を流しながら、少しずつ智を磨くことを積み重ね、悠久の年月と無数の犠牲を費やしてついに法=「人間の力」を完成させた。
つまり。
法を信じるということは、人間を信じるということである。「人間の力」を信じるということである。
常守朱は、苦悩していた。
法を超越したAI(結局それは””人間的でない人間””の脳が大量に並列接続されたオーガニック・スーパーコンピューターなのだけれど)であるシビュラシステムが人間にまつわるすべてを裁定する社会で、それでも尚、人が人を裁くことに意味があるのか。シビュラシステムによる裁定=ドミネーターの””引き金””を、人間である自分が引くことに、意味があるのか。
その苦悩は、狡嚙慎也の出奔と槙島聖護に対する””違法””な私刑を阻止できなかったことでさらに深化する(ここまでがテレビアニメ第1期)。
シビュラシステムで裁けない人間がいる。その人間を裁くために、法の力を機能させることすらままならないこともある。そんな不完全なシビュラシステムに守る価値があるのか?同時に、シビュラが不完全だとしても、シビュラ以上に不完全な人間である自分がシビュラを疑うことに正当性があるのか?いくら問いかけても、誰からも答えは返ってこない。シビュラシステムをめぐる現実、シビュラシステムによって統治される社会の現実と向き合っていくほどに、自分自身が「シビュラシステムで裁けない人間」であるという事実が克明になっていく(ここまでがテレビアニメ第2期)。
そんな中で、彼女は「暴力に対抗する暴力」となった狡嚙と再会する。暴力もまた、人間が人間を裁き支配するために用いてきた古典的な機能であり、シビュラに対抗し得る「人間の力」である。彼の””力””に命を救われても尚、朱は暴力という法の埒外の力を信じることができなかった(これが劇場版第1作)。
これまで10年にわたって描かれてきた常守朱の苦悩が、本作のラストで結実する。
それは必ずしも彼女の苦悩からの””解放””を意味するわけではなく、むしろ彼女の苦悩は新たなフェーズへと移行したと言って良い。
迎合してシビュラの一部となるか徹底的にシビュラの埒外へと出るか、という二択から逃れられない””特異点””である彼女に、安息の日が訪れることは無い。
ただ、それでも、(我々の時間感覚でいうところの)10年の月日をかけて、彼女の哲学はようやく一つの””解””を見た。
常守朱は、法を、人間の力を、人間を信じた。
そして彼女は、「法というシステムを守るための、システム外の暴力」を行使する責任を、特異点である自分自身に見出した。
彼女は「シビュラか法か」という二項対立から脱構築し、「自分はシステムのインサイダーでいるべきかアウトサイダーでいるべきか」という選択を自らに突き付けた。そして彼女は「システムのアウトサイダーとなり、かつシステムの当事者として暴力を行使する責任を引き受ける」というとんでもない結論に至り、ドミネーター=シビュラの裁定 ではなく、拳銃=人間の私刑 の引き金を引いた。
この結論は、あまりにも非合理的だ。選択の結果彼女が取った行動は、確かに法というシステムを維持するという目的の達成には資するが、彼女の人間的な””ふつうの幸せ””=厚生(welfare)を徹底的に破壊する結果をもたらす。それこそ、「合理的」なAIであれば絶対にくださない決断だろう。
そんな中で彼女が拳銃の引き金を引いたということは、紛れもなく彼女が人間であるということを、この上なく強烈に示している。
彼女は暴力によって自分自身の人間性を確立し、そして人間性の象徴である法を守った。
法を犯してまで。
馬鹿らしくなるほどに逆説的で、倒錯的で、醜くて、でも、あまりにも美しい哲学だと僕は思った。
彼女に「システムのアウトサイダーとなり、かつシステムの当事者として暴力を行使する責任を引き受ける」という選択肢を与えたのは、他でもなく、
狡噛慎也である。
狡噛は特異点ではない。だから彼は「システムのアウトサイダーとなり、かつシステムのアウトサイダーとして暴力を行使する」ことしかできなかった。そしてアウトサイダーとしての暴力で常守朱の命を救った。今回の事件を通して、狡噛は朱に「暴力に対抗するために暴力を行使する」という選択肢を示し続けた。
今回の映画で描かれた一連の事件を通して、常守朱はあらためて狡嚙慎也という人間と向き合い、そして彼に教わった哲学を””背骨””として生きている自分自身と向き合った。その結果として、彼女は引き金を引いた。
狡噛は朱に引き金を引かせたのは自分だと思っている。彼はそういう男だ(狡噛慎也!!そういうとこ!!そういうとこだぞお前!!!)。
でも、僕は違うと思う。
確かに狡噛は朱に暴力という選択肢を提示した。また、「自分を守るために狡噛に暴力を行使させた」という自責の念を背負わせた。
そうであったとしても、今の常守朱は、そんな理由で暴力を行使する人間ではない。
テレビアニメ第1期、第2期、そして劇場版第1作を経て、常守朱は苦悩し続け、そして成長してきた。
今の常守朱は、自分で考え、動く。自律し、自立している、””人間””である。
約10年間かけて描かれてきた常守朱の物語は、彼女が””人間””になるまでの物語として、ここに完結した。
””人間””とは、システムの当事者でありながら、システムに呑まれることなく、自立し、自律して、思考し、行動する者のことである。
彼女は””人間””として、「人間の力」である法を信じ、己が信じる法を守るために、法の埒外の「人間の力」である暴力を行使した。それが彼女の正義である。
自分の正義を貫いた彼女は、その正義の””正しさ””の相対性を突き付けられ、新たな苦悩の底へと突き落とされ、慟哭する。
彼女をそんな””正しさのどん底””から救い出せるのは、同じどん底から自力で這い上がってきた人間であり、かつ彼女が信じ続けた人間であり、さらに彼女のことを信じ続けた人間である狡噛だけだ。
恋とも憧れとも違う朱と狡噛の唯一無二の関係性は、やはり美しい。
テレビアニメ第3期のラストシーンで、狡噛は朱を迎えに行く。放送当時はこのシーンの意味が全くわからなかった(マジでこの作り方は良くないと思う)が、今回の劇場版を観てようやくわかった。なるほど、こういうことだったんですね……。
10年かけて、ようやく、朱も狡噛も、””人間””として生きていくことができるようになった。
テレビアニメ第1期も、あんまり好きになれなかった第2期も、劇場版第1作も、Sinners of the Systemも、そして訳が分からなかったテレビアニメ第3期も、すべて、このためにあったのだ。
なるほど……PSYCHO-PASSって、こういう物語だったんですね……。
10年にわたるPSYCHO-PASSという哲学の””結論””として、素晴らしい映画だったと、本当に、心の底から、そう思う。
脚本も素晴らしかった(倒置法を多用する独特な言い回し、聖書や哲学書、詩の引用などPSYCHO-PASSの脚本ならではの要素がぜんぶ上手くハマっていた)。
作画も素晴らしかった(戦闘機のシーンの作画がマクロスを凌駕する超絶美麗作画になっていてマジでびっくり)。
アクションも素晴らしかった(実写か??と思うぐらいリアルなマーシャルアーツ。息をするのも忘れるぐらいの緊迫感)。
キャストの演技も素晴らしかった(特に本作の影の主人公である慎導篤志役の菅⽣隆之さん)。
そして!何より!宜野座伸元の!顔が!良かった!!お前ただでさえ顔が良いのにさぁ!!また髪型変えちゃってさぁ!!それも綺麗だしさぁ!!くくってるロン毛をさぁ!!下ろしたときのさぁ!!陽の光に照らされた!!横顔が!!良すぎる!!はぁ~~~お前~お前が狡噛サンにデレた瞬間かわいすぎてよしよししたくなっちゃったよ~~~こいつめ~顔が良いかわいい奴~~~
失礼。取り乱しました。
とにかく。
劇場版PSYCHO-PASS PROVIDENCE。PSYCHO-PASSと過ごした10年の集大成。素晴らしい作品だった。
僕も哲学をやめずに、””人間””として、生きていきたいと思った。
虚淵玄氏らニトロプラスのみなさん、塩谷監督をはじめとする制作スタッフのみなさん、花澤香菜さんや関智一さんをはじめとするキャストのみなさん、素晴らしい作品を届けてくださって本当にありがとうございました。僕はこれからもPSYCHO-PASSのファンであり続けます。
頼むからPSYCHO-PASSシリーズ史上いちばんヤバい狂人嘉納火炉の物語をもっと描いてくださいニトロプラスさんお願いします!!!
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