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一度弾けた曲が弾けなくなっても、残るもの

楽器演奏は日々鍛錬の連続で、これを怠ると、一度流暢に演奏出来た曲でも、弾けなくなってしまう。しかしだからと言って、その練習や経験が無駄になる訳ではない。今回は、苦労してマスターした曲が例え弾けなくなったとしても、そこから得られるもの、残るものについて、技術的側面から書いてみる。

例えば、左手に音域の広いアルペッジョが多い曲(ロマン派などに多い)を練習したとすれば、その曲自体が弾けなくなっても、似たようなアルペッジョの曲は、次からずっと楽に弾くことが出来る。手の返しやくぐりがスムーズになるし、指使いのコツも掴めてくるからだ。

重厚な和音が多く登場する曲を弾いたならば、いくつもの鍵盤を同じタイミングで押し、バランス良く和音を鳴らす技術が習得出来ているはずである。そして和音による手の形も、知らぬ間に手が覚えている。楽譜にある和音の並びを見ると、自動的にそれを押さえるための指の形になる。

トリルが頻繁に出てくる曲であれば、必然的にトリルの技術が上がる。その練習過程で無意識に、余分な力を入れず、トリルを美しく制御する技が身につく。また、より多くの指の組み合わせを、トリルに使えるようになるかもしれない。

フーガをマスターすれば、対位法的な、複雑な音型の組み合わせを聞き取れる耳になり、左手の技術も向上する。左右にまたがるメロディの橋渡しも上手くなる。対位法は、指のテクニックそのものが磨かれる。

無窮動的な曲を練習した後ならば、細かい音の連続を、粒を揃えて弾くのが上手くなる。鍵盤を押さえる深さが一定になり、コントロール力が上がる。また、早いテンポの曲を弾く際の、集中力の使い方のようなものも獲得する。

深い表現方法を問われるような曲を弾いたならば、行間を読み取り、聴かせ方を工夫することになる。そこで知らず知らず身についた分析力と表現力は、他の作品を演奏する際にも応用出来る。

内声の多い繊細な曲であれば、片手でいくつものメロディを弾き分けるテクニックと、それを聞き取る耳が養われる。運指の勉強にもなる。このような曲は、非常に丁寧に練習する必要があるので、派手ではないが確かなテクニックも身につく。

細かいスラーやスタッカートが連続するような曲であれば、アーティキュレーションの表現法が磨かれる。同時に、それを弾き分けるための耳も養われる。

という具合で、どんな曲でも、それが一見何のテクニックも必要としないように見える曲であろうとも、それを練習することで必ず得るものがある。そしてそれは、仮に苦労して練習した曲が弾けなくなってしまっても、手の中に残るものであり、どこかへ消えてしまうものではない。無駄になることはひとつもない。

もし何も得られないことがあるとすれば、極めていい加減に適当に弾いて終わり、というような場合だけである。

ピアノは10本の指を細かく連動させ、運動機能を駆使して弾くため、それなりのレベルの一曲を、完成させた状態に保つことは、思いのほか難しい。だからあまり完成形だけに拘らなくても良いのではないかと思う。一曲との出会いを存分に楽しみ、新たな曲に向かって別れを告げる。

生涯弾き続けるレパートリーは、数曲でも充分だと思う。選びに選んだ相性の良さと愛着。これは生涯に渡る素晴らしい友人がほんの数人いれば、人生はそれだけで豊かになるのと似ている。音楽性を高めるには、様々な音楽に触れる方が良いのは確かだ。しかし、一度手に入れたものを、あれもこれも取っておきたいとなると、結局美しい状態で保つことは困難になるのだ。


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