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音楽評論① 『サンフランシスコ』 筋肉少女帯
一人の人生を急かされて追体験
サンフランシスコ(作詞:大槻ケンヂ / 作曲:三柴江戸蔵 / 編曲:筋肉少女帯)
第一回目の『好きなだけの音楽評論』は、筋肉少女帯さんの『サンフランシスコ』について、語っていきたいと思う。
「サンフランシスコ!!」の叫び声がなんとも耳に残る曲であるが、この曲の凄さは何と言っても「忙しなさ」であろう。一人の人生をまるで追体験するような曲は、この世界にいくつもある。しかし、まだまだゆっくり味わっていたいのに「ほら、先に行くぞ」と、どんどん急かされてしまう曲は、おそらくこの曲しかないと思われる。まるで、極上の映画を早送りで飛ばし飛ばしで見せられてる気分だ。
これが言いたいことの全てなので、この時点でこの記事を見るのをやめて是非『サンフランシスコ』を聴いていただきたい。ここからは曲の概要や歌詞の僕なりの解釈、つまり語りたいだけの些細な音楽トークであり、ある意味蛇足である。
蛇足を楽しみたい方はもう少し付き合ってくださいませ。
曲の概要
『サンフランシスコ』は筋肉少女帯のメジャーデビューアルバム『仏陀L』の六曲目に収録された、今でもライブでよく演奏される代表曲と言っても過言じゃない曲だ。詳しくは、下線の引いてある単語はwikipediaに繋がってるのでそこをクリックしていただき見てもらいたい。
サンフランシスコはとてもバンドにとっても思い入れのある曲で、『SAN FRANCISCO』というアルバムで、リメイクもされている。1stアルバムに収録されているバージョンの聴きどころが、ピアノであるなら、リメイクバージョンはギターを全面に出しているアレンジと言える。どちらもかなりかっこいいので、聴いていただけたら嬉しい。
好きなだけの音楽評論
イントロについて
今回は『仏陀L』に収録されているバージョンをメインに話していきたい。
曲が始まり、ボーカルの声が最初に入るのは約36秒後。つまり、その間は楽器のみで展開されるわけだが、これが驚くほど何回聴いても飽きない。「テレレテレレ」と軽やかに音が入ってきたと思いきや、そこからは重低音の洪水。何と言ってもドラムが最高だ。そして一旦静かになったと思いきや、ボーカルの声がそこから入ってくる。
ここで疑問に思う方もいるだろう。なぜ、ボーカルの声が入ってくるまでの時間という言い方をするのか、イントロでいいじゃないかと。それは、実はこの曲、どこからどこまでがイントロかと聞かれるとちょっと答えづらいのである。
さようなら さようなら
こんなに遠い 異国の果てで
お別れするなんて
本当に辛い
36秒後、初めに入るのは歌ではなく、このような語りであるからだ。そして語りが終わった後、再び楽器の演奏がメインになり、歌メロ(歌う部分のメロディ)を歌い始めるのは曲が始まって57秒あたり。ここまで含めてイントロと言ってもいいかもしれないし、語りの時点でイントロが終わったとも捉えられる。どちらにせよ、素晴らしいイントロなので全然長く感じることはない。
若者はイントロを飛ばす、という説が流行ってるが、それならばこの曲をお薦めしよう。ボタンを押さなくてもイントロを短くできるからだ。
ちなみに、語りが入るのは筋肉少女帯あるあるなので別に珍しいことではない。
この語りの時点でぐっと世界観に引き込まれるが、この詩は、詩人、中原中也さんの『別離』からの引用および少し変えたものとなっている。作詞の大槻ケンヂさんは、彼の詩を度々引用することがあり、『スラッシュ禅問答』では詩『サーカス』の一節を引用している。また、ときにそんな自分を「中也のパクり」と卑下することもあり、その卑下にもなぜが力があるもんだから『サーチライト』というとんでもない曲を作ってたりもする。
ここからは僕なりに歌詞の解釈をしてみたい。
お別れしたがってる、なのにそれを消される
空気女と小人を連れて
街にサーカスが来る前に
ぼくら終ろう
お別れしよう
夏の来る前に
歌メロに入り最初の歌詞がこれであるが、どうやらこの主人公はすぐにでも恋人? と、お別れしたがっているらしいということが分かる。
サーカスが来ると
二人ドキドキして
まだぼくは君を
恋してるのかもしれないなんて
思いちがいをして
しかし結局サーカスはお別れする前に来てしまい、二人は観客として魅せられてしまった。そのときに感じたドキドキを、主人公は恋と思いちがいしてしまい、恋はある意味延命させられてしまったのである。
さらにサーカスの演目は進んでいき、ぼくらのドキドキも進んでいく。
サーカスが来ると
君はドキドキして
「きっとうまくいくわ」なんて
夢みたいなことをいって
思いちがいをして
二番では、ついに「君」側は「うまくいく」とまで言い出してしまう。しかし、相変わらず主人公はそれを「夢みたい」であり「思いちがい」と言い切る。自分もサーカスへのドキドキ、高揚感と言い換えてもいい、それに惑わされてしまっているのに、それでも主人公である「ぼく」は「君」とお別れしたがっているのだ。
サーカスが来ると
二人ドキドキして
「まだぼくは君を」なんて
「きっとうまくいくわ」なんて
綱渡りみたいに
だが、最後はこうなってしまった。
結局「ぼく」と「君」はお別れするはずだったのに、サーカスによって思いちがいをさせられてしまった、というのがこの曲の結末なんだろうか?
しかし、意味深にもその状態を「綱渡りみたいに」という言葉で表現し、この曲は終わる。そこに着目してみたい。
ところで僕はここの歌詞にいつも痺れる。ここで一番で出てきた「まだぼくは君を」と二番で出てきた「きっとうまくいくわ」を持ってくるあたり、大槻ケンジさんは本当に天才だ、と自分は思ってしまうのだ。
話を戻そう。
ここからは「綱渡りみたいに」に注目して考えていく。
綱渡りみたいに
綱渡りというものを頭に浮かべてみる。
多くの人のイメージでは、左右に揺れながら、フラフラしながら、なんとか綱に立っている人の姿が浮かぶのでないだろうか。つまり、「綱渡りみたいに」というのは、「いつ崩れてしまってもおかしくない状態」のことを指していて、サーカスによって少し延命された恋も、結局は一時的に凌いだだけに過ぎず、やがてこの恋は終わることをこの最後の歌詞は示唆しているのかも、と考えられないだろうか? 「ぼく」はサーカスによってドキドキされても、どうしてもそんな恋への危機感、不信感が拭えなかったのではないか、と。
筋肉少女帯の楽曲には『きらめき』『香菜、頭をよくしてあげよう』など度々「恋はやがて終わる」というテーマの曲が出てくる。決して強引な解釈ではないだろう。
また、綱を一つのボーダーラインと考えてみると面白いかもしれない。どちらが右か左かは大した問題ではないが、綱渡りが失敗したとき、片方に落ちれば「恋が続く」、もう片方に落ちれば「恋が終わる」という結末が待っていて、それを曖昧にしてる現状は、まさに境界線の上に立っている状態だという観点だ。どちらにせよ下に落ちてしまうので、きっと恋が続いてもその場しのぎなのではあるのだろうが。
ところで『サンフランシスコ』の歌詞の考察をするにはどうしても避けて通れないはずなのに、なぜかスルーしてしまっている部分がある。それが
ノウズイは
ものを思うに
ものを思うにはあらず
ものを思うは
ものを思うは
むしろこの街
という歌詞だ。綱渡りのくだりの前に出てくる歌詞で、『サンフランシスコ』において特に難解な部分だと、度々ネットの海で言われてるのを見てきた。脳髄という言葉自体は、筋肉少女帯でも『釈迦』『いくじなし』などで見られる決して珍しい言葉ではない。しかし、ここの部分の解釈は少なくとも僕は、Youtubeでもニコニコでもブログでも深掘りしていった人を見たことがない。自分の調査不足だとしたら申し訳ないが、筋少ファンでもなかなか解釈に悩む部分であるのは違いないだろう。
ただ、この『好きなだけの音楽評論』という記事は、紹介する曲を十五文字以内で簡潔に述べた後は(今回だと『一人の人生を急かされて追体験』が該当する)とにかく長い文章で、その曲が好きでたまらない人に向けて熱意を込めて書くのがルールであるので、自分なりにこの部分も語っていきたいと思う。ただ、正直言ってしまうと、もう今までの解釈で答えは出てしまっているに等しい。
ノウズイ=ぼくら この街=サーカス
ものを思う、というのをシンプルに「考える」と捉えてみる。この「考える」には、意思や気持ちも含まれている。普通ならば、考える主体は人間であり、さらに言えば脳である。つまりここで言うノウズイとは、人間を示しており、歌詞に出てくる人物に注目するなら「ぼくら」のことなのだ。
しかしここでは、ものを思うのは、ノウズイではなくこの街だと歌われているのである。つまり「ぼくらは考えているようで考えてない、ぼくらが考えていると思ってることは、実はその街が考えてることに過ぎない」と歌っているのだ。
今まで僕は「終わるはずの恋が、サーカスによって延命されてしまった」というストーリーを話していたが、この解釈に当てはめれば、『ものを思うは むしろこの街』という部分も説明できるのではないだろうか。つまり、自分たちの考えや感情など、外部からの刺激で簡単に変わってしまえる、というのがこの曲全体に漂っている価値観なのかもしれないということである。
ノウズイ=ぼくら この街=サーカスであり、サーカスによって恋への気持ちが変化してしまったように、人々の考えは住んでいる『その街』、言い換えれば『環境』によってあっさり変わってしまうのではないだろうか、そのようなメッセージが込められているのがこの部分の歌詞だと、自分は考察してみた。
今では「環境によって人は大きく変わる」というのは、『〜ガチャ』という言葉からも分かるように当たり前の考えになってきているが、1988年の時点でこのようなメッセージを込めていたとしたらあまりにも先見の明がありすぎである。しかし、『踊るダメ人間』など、今の若者にこそ共感できる詩を書いてきた大槻ケンヂさんならば、あながちこの解釈も外れていないのでは? なんて思ってしまったり。
総評
そんな綱渡りのような、恋愛の左右へのフラフラ模様は、まるで人生そのもの。というのも、人生とは感情の動きによって構成されていくものだからである。
今回は歌詞の解釈が多めになってしまったが、やはりこの曲の要は最初に述べたように、そんな人生の動きを、「ぼく」が「君」との間で移り変わった感情の動きを、あっさりと早送りで聴かされる『忙しなさ』に集約されてる気がする。情報量の多さに対して、あまりにも言葉が短く、あまりにも音楽がかっこいいため、結局は深い考察も必要ない気がしてしまうのだ。
また、この解釈で最初から改めて聴いてみると、別れる気でいるのに、語りで「別れが本当に辛い」と歌うオーケン(大槻ケンヂさんのこと)は、なんというかあまりにも白々しくて笑えてきてしまう。もしかしたら、キザな言葉を言い放つ胡散臭さみたいなものを表現するために、わざと詩を引用したのかも知れない。自分から別れようとしてる直前に中原中也さんの詩でお別れの苦しさを語るなんて、まさに『ペテン師』のようなものだからだ。ペテン師も、この『仏陀L』ではある種キーワードとなっている言葉である。
以上で『サンフランシスコ』の音楽評論を終えます。少し肩苦しくなってしまったかもしれません。
最後に『サンフランシスコ』のライブ映像を紹介。
最高にテンションが上がる映像となっているのでぜひ!
参考にさせていただいたサイト
『備忘の都』squibbonさん
感想や記事の修正点、何か自分の「私はこう思うよー!」という解釈があればぜひコメントしていただけると嬉しいです。よければ「スキ」、「フォロー」もしていただけると嬉しいです。ここまで読んでいただきありがとうございました。
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