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栗山さんは言う。「あそこで1本出ていれば…」には、全く意味がない、と。【7/23巨人戦●】

自分にはどうすることもできないつらい現実が目の前にある時。そのモヤモヤを解消する(ような気になる)一番てっとり早い方法は、誰かを、もしくは、自分を責めることだ。

ヤクルトがまた、またもやサヨナラ負けをする。一体今季は何度、このサヨナラを見るのだろう。少なからず、心は痛む。大きな大きな、ため息をつく。とてつもなく明るい前向きな気持ち、というわけではまあ、もちろん、ない。

「なんで打たれるかなあ」と、もちろん思う。「なんで打てないかなあ」と、思う。「なんで守れないかなあ」と、そりゃあ思う。一敗につながるいろんな場面がよみがえる。あれがなければなあ、と、そういう場面はいくらでも出てくる。

だから、打たれた人や、打てなかった人や、守れなかった人や、指示をした人や、判断をした人や、もしかしたら応援する自分を(声援が足りなかったからじゃないか、みたいな思いを見かけることもまま、ある。)、責めることはまあ、簡単なのだ。手っ取り早く、このもやもやや、やり場のない気持ちを取り払ってくれそうな、気がする。

でも栗山さんは著書『稚心を去る』の中で言う。(ごめんかなちゃん、借りっぱなし!)

「あそこを抑えていれば…」
「あそこで一本出ていれば…」
「あそこでエラーしなければ…」
そう考えることには、全く意味がない。大事な場面で誰かが打たれても、打てない打席があっても、エラーしてしまっても、それでも勝つときは勝つ。それも含めて野球なのだ。


(栗山英樹『稚心を去る』)

「あれがなければ」というプレーは山のように思い浮かぶ。でも例えばそのうちのどれか一つが、この一敗の決定的な理由になっているわけではない。ゲームは、もっともっと複雑に、いろんな要因が重なりあっているものなのだ。

私だってつい、「てっぱちはなぜそこで打てない!!!!」と、口にする。ブキャナンが打たれなければ、村上くんのミスがなければ、こんちゃんが先頭打者を出さなければ、と、思いもする。応援するということはすなわち、そのチームに勝ってほしいと願うことだ。当然、負けてうれしいはないちもんめということにはならない。だから「勝ちに繋がらないプレー」には大きく大きくため息をつく。

 だけど栗山さんの言う通り、野球というチームプレーにおいて、誰か一人だけが、責任を負うということはないのだ。まあ栗山さんは「俺が悪い」って言うわけだけれど。

そして、それをどれだけ責めようが、この気持ちがどこへもいかないということなんて、自分が一番知っている。

そもそも、この(決して強いとは言えない)チームを勝手に好きになり、勝手に応援して、勝手に一喜一憂しているのは私なのだ。例えば「怒り」に似た感情はもちろん持つけれども、それをことさらに外に出しても、得るものはそんなにない。この消化しきれなかった気持ちが、消化できるわけではもちろんない。

だから今日だって私は、大きくため息をつきながら、ああなんでこんなチーム好きになったんだとぼやきながら、もう一生見ないけど明日の先発は誰だっけなと調べながら、この報われない日々を生きてゆくのである。

「負け」から学ぶことは、たくさんあるんだよなと、自分に言い聞かせながら。全くなんでもってこんなに美しい南の島でまで、このチームに一喜一憂しなきゃいけないんだと思いながら(今のところ一憂しかしてないけれど)。

惚れた弱みというのは、いつまでもいつまでも、つきまとうものなんである。



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