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たいしは四球を選び、一塁まで走る【8/11巨人戦●】

こちらの得点圏のランナーは絶対にホームにはかえれないけれど、相手のランナーもれなく豪快なホームランで一斉に返してあげる。もうその図をひたすら見続けていると、何らかの神経は麻痺してくるのである。これ、今季何度か経験している。

具体的に言うと、6回あたりの攻撃があっさり終わったあたりから、特にその得失点差の数字には何の意味をも感じなくなる。勝敗?そんなもの、人生に何の意味ももたらさない。ヤクルトが負けたところで死ぬわけじゃない。

これを一種の悟りの境地と呼ぶ。ブッダはたぶんヤクルトファンだったのだろう。悟りに達した私はその試合でなにを見るのか。

そう、たいしである。

たいしはこれまでの2試合で、ひっそりとホームランを打っていた。いや、ひっそりじゃ全然ないのだけれど、いろいろと傷が深すぎてたいしのホームランで実質勝ちなことを忘れていた。

7回表、1-7、2死1塁の場面で打席に立つたいしを、ウーロンハイを飲みながら私は眺めていた。もうその時私は、たいしのことだけを考えていたと言ってもよい。点差も、なんなら借金も、おそらく一生埋まらないゲーム差も、そんなものは今はもはや関係ない。たいしが打つのか打たないのか。今大切なのはそれだけだ。

たいしは、四球を選んだ。

ふむ。と、私はウーロンハイを飲む。

たいしは、一塁まで走る。ヒットではないけれども、それは四球だけれども、用具をボールボーイに渡したたいしは、長い足で一塁まで走った。

ホームランを打ってくれるのがもちろん一番良い。そういう展開をたぶんもちろん、期待していた。ヒットならたいしの打率がまた少し上がる。でもそうじゃなくて、四球だった。だけど私はなぜかそれなりに、嬉しかった。それはなんにしろ、その打席で、たいしがしっかり自分の意思で、選んだ結果だから。

野球は頭をかなり使うスポーツだ、と思う。戦略的なものがかなり重要になってくる。だから、よっぽどの打者でないと、その打席で、そして塁上で、自分だけの考えでプレーできることはそんなに多くない。打席ごとに、あらゆるサインがそこで出される。

若いたいしは、そこであらゆるサインを受け取る。時にはスクイズのサインが出て、もちろんバントのサインが出る。できることなら、ホームランを打たせてあげたい、そういう場面でも。

まだまだここからだ、と、私は思う。たいしが自ら選んだその四球が、今度は決勝点となるホームランになるかもしれない。いや、なるだろう。いや、なって。

そのうちにきっと、そこで大きな1本を打つことを、期待される選手になると思うから。四球を選び、1塁に走っていくたいしを見ながら、なんとなくそんなことを思う。

あまりに多くの被弾を見ながら、私の心はどこか遠くの未来にまで飛んでいく。目の前の数字は形而上のものに見えてくる。だけど不思議なことに、また翌日の試合はすぐにやってきて、あらゆるトラウマを抱いたまま、また私はそこに足を運ぶ。今度はまた、ゲームを左右するであろうたいしの打席に一喜一憂したりもする。ブッダが煩悩を無くすことに一生を捧げたのもわかるわ、と、思いながら。(悟りの境地)


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