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私たちの目は何を見ているのか

【昆虫エッセイ】
「お久しぶりです。よろしくおねがいします」
森に一歩足を踏み入れた瞬間、自然と心の中でそう呟いていた。

去年の夏に通った自然公園へ、今年初めて出掛けた。

森に入ってまもなく、頭上から飛行機のジェット音のような轟音が聞こえた。
「近くに飛行場なんてあったかしら」
言うが早いか、ゴロゴロゴロ…を合図に突然辺りは薄暗くなり、にわか雨に振られてしまった。

雨粒が、葉を叩く音がする。
激しい雨音の割に、私の体はほとんど濡れていないのは、鬱蒼と茂った木々とその葉が私を包み込み守ってくれているからだと気がついた。

目を閉じると、雨音の違いがはっきりとわかる。
水滴が針葉樹の間をすり抜ける音、フキの広く大きな葉で雨粒を真正面から受け止める低い音。
数え切れないほど多くの植物が存在していることを全身で感じた。

進んでも、進んでも続く森。
湿った空気と、むせ返るような自然の香り。

雨が降ったからこそ、ここでしか味わえない土と森の香りを嗅ぎ、雨音を聴けた、ということが、新鮮な感動として胸に迫った。

葉を打つ雨音は、いつの間にか一粒一粒の大きな雫となって、木々からしたたり落ちるぽたり、ぽたり…という柔らかな音に変わっていた。

雲間から日差しがうっすらと射し始め、木立がフィルターとなって、私の足元をまだらに照らしている。

遠くから、エゾハルゼミの鳴き声が聞こえる。

ここ数日間の麗らかな陽気に誘われ羽化した早生まれのオスたちが、雨が止んだことを察知し、メスを求めて鳴いているのだ。

眩しい木漏れ日を避けるように目線を落とすと、足元の茂みにキラリと光るものを見た、気がした。

しゃがんで覗き込むと、それは声の持ち主のエゾハルゼミだった。

体幹には白い微毛が生え、羽にはまだうっすらと
黄緑色の線が残っている。

昨夜羽化したのだろうか。
まだ鳴くことを知らない、この世界を知って間もないオスのようだ。

そっと手に載せ、まじまじと見つめる。
透明の羽、若葉色の文様、茶色の目、そして額の真ん中にある真っ赤な3つの点。

両側の茶色の目は複眼。
額の赤いのは3つの単眼。

彼の目には、私はどのように映っているのだろう。
あの時、木漏れ日を眩しく感じなければ、ちょうどエゾハルゼミの鳴き声を聴かなければ、日差しが羽を輝かせなければ…私は彼に出会えなかったはずだ。

私の目には、一体何が写り込んでいて、そのうちのどれだけのことを認識しているのだろう。
視界に入ったものは、網膜上に投影され、視細胞を通じて脳へと伝達される。

目に入っているはずなのに、網膜に写り込んでいるはずなのに、そこにある多くのものを認識していない。
それが人間の目というものなのだと思う。

見ようとしないと見えないもの。
感じようとしないと感じられないもの。

キャッチできるかどうかは、いつでも自分にかかっている。

それが今日、森の中で、雨と光とエゾハルゼミが私に教えてくれたことだった。

帰り道。
適度な疲労感に包まれながら、ふと、ある人のことを考えた。

彼はいつでも人に見えないものを見て、感じている人だ、と思う。

エゾハルゼミの目のように、いつでも真っ直ぐに、そして力強く自分の決めた道筋を見据えて動いている人。

彼は若き20代の頃に元大関KONISHIKIさんのマネージャーをしていたことがきっかけで、友人を巻き込んでCDを日本縦断しながら手売りしたり、地元に密着したイベントを行ってきた、現サラリーマンの一般人(読書好き筋トレ虫好きおじさん)である。

KONISHIKIさんが、被災地や子どもたちへのボランティア活動を積極的に行ってきたこと、周囲の人や日本をとても大切にされている優しいお人柄だということを、彼を通して知った。

今年の11月12日、13日に神奈川県伊勢原市で開催するイベントと全力で向き合っている。
その他にもダイエットに山登りに本にエッセイに虫に…と、統一感のないジャンルで感性の赴くままに頑張っている彼のことを、是非知ってもらいたい。

知ればきっと、応援したくなる…はずだ…と思う…気がする。

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