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金木犀を「わかりたい」夜

今日の帰り道は、むしゃくしゃしていた。
もうすっかり暗くなってしまった18時の夜道で、むしゃくしゃしながらひとり自転車を漕いでいた。

楽しみにしていた週末の予定がなくなり、おまけに仕事で帰りがけに嫌なことがあって、華金だというのにパッとしない。全部仕方ないと割り切ろうとしているのに、どうにもうまくいかないのだ。夜風はすっかり涼しくて雲も夜の色に染まっている。口を真一文字に結んで、重たいペダルを漕ぐ。ああむしゃくしゃする。

そのとき不意に、あ、と思った。

金木犀だ。
どこからか風に吹かれて、なつかしい甘やかな匂いが鼻先を撫でた。
今年は今日が初めてかもしれない。長い長い夏だったから、秋はほとんどないまま冬になってしまうのかと思ってたけど、やっぱり今は秋なんだ。
真一文字に結んでいた唇がほころんだ。

金木犀の樹はどこにあるんだろうと自転車を漕ぎながらきょろきょろ探してみたけれど、結局近くには見つけられなかった。
遠くからこの匂いだけがやってきたのだろうか。

そういえば昔友達に、「金木犀の匂いがわからない」という人がいた。
その人は、みんなのいう匂いがどれのことなのか全然わからない、と言っていた。でも香水やパフェなんかで匂いを覚えるのはなんだか負けた気がするから、自分で秋にどこからか香る金木犀をいつかわかりたいんだと。
勝ち負けだと思っていることにちょっと笑ってしまったけれど、でも言っていることはわかる。

その人がいつか金木犀の匂いをわかったら、それは世界にひとつ新しく輪郭がつくようなものだろうか。街に溢れる他の全ての匂いの中から、「これだ」と手で掴みとるように”発見”するのだろうか。
よく考えてみたら、自分がいつから金木犀の匂いを認識していたのか覚えていない。気づいたら「また今年も秋が来たなあ」とかいっぱしの大人風情だった。
そう思うと、これから金木犀に出会えるかもしれない人生の方が感動があるような気がしてくる。
その昔の友達が今年金木犀の匂いをわかったのかどうか、それとも去年にはすでに発見できていたのかどうか、それを気軽にLINEで聞けるほどの距離感に今わたしはいない気がする。

だからいつかまた、金木犀の匂いを知らない人に出会えたら、わたしも一緒になって「発見」してみたい。今!今してるよ!とか言いながら。その人の世界にひとつ輪郭がついて、その人の秋がすこしだけ色づいていくところを隣で一緒に見てみたい。

でももしかしたら、毎年わたしが金木犀だと思って味わっているこの匂いが全然ちがうっていう可能性もあるよな。ということはまだわたしにも、世界を「発見」できるチャンスはきっと残されている。


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