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「アリとキリギリス」 から見る現代の生き方


イソップ童話の「アリとキリギリス」の話を知ってるだろうか。

アリが春から秋の間、必死になって食べ物を蓄え得る間、キリギリスはその側で音楽を奏でるだけで、冬になってから食べ物の無くなったキリギリスが、最後はアリに助けてもらう、確かそんな話だったと思う。(大分話がぼやけてるけど)




これを読んだ多くの人が、
アリは真面目に食べ物を蓄えてたから賢い。
それに比べてキリギリスは音楽ばかりやって、なんてバカなんだ。
キリギリスにならないよう、アリでいる事が良い事なんだ。
と思うんじゃないだろうか。

僕も小さい頃この話を聞いてからずっとそう思っていた。
この話の教訓は、アリの様になった方が偉いんだ、と。

でも、実はそんな単純な話でもないらしい。
これをキリギリス目線で見てみると、どうなるんだろう。



キリギリスは、アリの側でいつも音楽を奏でてるけど、この音楽を奏でられるまでに、一体どれくらい練習に時間と労力を費やしたのだろうか。

アリが食べ物を必死に蓄えてる間、キリギリスも、食べる時間や寝る時間を惜しんで、音楽や歌でアリを喜ばせる為に時間を使っていたとしたら、随分と話の見方が変わってきた。



ロンドンの公園で


スペインの南の小さな街で


オーストラリアのタスマニア島で


ベルギーの首都、ブリュッセルで


ジャマイカのキングストンで


グアテマラのバーで


キューバの広場で


ベルリンのフェスティバルで



キリギリスが音楽を奏でてる間、アリはその音楽や、キリギリスの持ってるキャラクター性で、仕事がもっと捗ったり、やる気になったり、楽しくなったりしたんじゃないだろうか。
だからこそ、冬になって困ったキリギリスを、最後には家に招くという行動に出たんじゃないだろうか。

もしもこの話が、キリギリスは毎日誰ともコミュニケーションを取らず、ただダラダラと一人で過ごしてるだけなら、アリだって助けたりはしないかもしれない。



本当のキリギリスには、情熱と時間をかけないとなれないし、かけてもなれないかもしれない。


キリギリスでいるのは、実はかなりのリスクがある。
だって食べ物の蓄えがないんだもの、冬にみんなにそっぽを向かれれば、それで一巻の終わりだ。

それでもキリギリスがアリに習わず、音楽を選ぶ理由はなんなんだろう。

音楽では、決して空腹は満たされないのに、現代でも多くの人が、音楽と、そのキャラクターに感動し、蓄えた資産を好きな音楽家に支払う。
時に、その資産は音楽家の一生分の食料が優に得られる程にもなる。

空腹は満たされないけど、他の何かが満たされるからだ。
それは幸福感だったり、感動だったり、生きる力と呼ぶ者もいるかもしれない。


ただし、それを与えられるのは、本当のキリギリスだけだ。
中途半端なキリギリスじゃ、冬を乗り越えることは出来ないだろう。
いや、それはまだキリギリスですらない!(何それ)

キリギリスになりたかったら、アリを感動させるんだ!
アリの心を揺さぶる様なスキルを磨くんだ!
そしてキリギリスになる事を恐れずやってれば、キリギリスも最高だぜ。



作者が、実はそんな目線でも書いてるという説があるとかないとか。
そんな事を思いながら見る「アリとキリギリス」は、実は結構バランス取れてるじゃんと、にやけてしまうのです。

アリになりきれず、今はまだキリギリスにもなれてないみんな、一緒にがんばろう。




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いや、これ誰かからサポートあった時ほんまにむっちゃ嬉しいんですよ!!