仕事も学びも「喜び」であるように…

私は実家暮らしで両親と一緒に暮らしているのですが、このコロナ禍で在宅勤務が基本となり、ほぼ四六時中、家族で家にいる生活が半年以上経ちました。親はいつも嫌々仕事をしているようで、毎日愚痴をこぼしており、一日の大半を嫌々やる仕事で過ごすって辛いよな…と思いながら、そんな親にお茶を淹れたりご飯の支度をしたりして過ごしています。

話は変わって、好きなテレビ番組の話を。テレビ東京で月曜の20時からやっている「世界!ニッポン行きたい人応援団」という番組が好きでよく観ます。この番組は、世界にいる日本文化愛好家を日本にご招待して、その学びたい分野のプロのところで学んでもらう…というような番組で、多少脚色とかはあるんでしょうけれど、外国人の方が目をキラキラさせて職人さんのもとで学ぶ姿を見ていると、なんというか、こちらまで元気をもらえるし、何か情熱を傾けられることがあるって素晴らしいなと思うんですよね。知らなかった日本の文化や職人さんの技を知ることもできるし、学ばれた方が母国で活躍している姿を見たりするのも楽しいです。

今の私には考えられないことですが、私は小学校の頃、伝統工芸品を作る仕事に憧れを持っていました。職人さんへの憧れは今でもありますね。コツコツと何年もかけて技を磨いて、10年やってやっと一人前…そこから先も果てなき探求…みたいな世界。そういった生き方こそが本当の「仕事」なのだろうなと私は感じています。手先が器用ではないので物作りには適性はないとはいえ、自分の場合は学びとか真理の探究みたいなところにおいてはそういう気持ちはありますね。あとやはり職人さんの仕事は創造性や表現の世界でもあり、食べ物であれ陶器であれ鋳物であれ、美しいものを追求することにエネルギーを注ぐことができるのも素敵だなと思います。そして、使う人が喜んでくれるようなもの、使いやすいようなものを作ろうという気持ちにまっすぐに生きられる(そうでないこともあるでしょうが)ことも魅力に感じます。

学びということに関してもそうです。私は「学び」とか「賢さとは?」ということに対してこだわりを持っているタイプで、受験三昧の人生前半の無意味さを痛感した今、学ぶということについて考えることも多いです。過去に試験勉強は作業、本当の勉強は独学 という記事にも書きましたが、やはり自発的に興味のあることを学ぶからこそ身になるのであって、「学びは喜び」であるというのが本来の姿だと思います。もっと言うと、「ここがわからない、知りたい」という思いがあって、学ぶからこそ理解が深まるんだろうなと感じています。あるカリキュラムに沿って講義を受けても、先に疑問がない限り、右から左なのではないでしょうか。例の番組に出られている方を見て感じるのは、母国では日本文化の情報が限られるため、疑問点が解消できずにいたからこそ、日本で本物に触れた時にここぞとばかりに吸収しようと熱心に取り組むのではないか、ということです。「知りたい」という純粋な思いは、「いい大学を出ていい会社に入りたい」「資格を取って給料のいい仕事に就きたい」といったような思いより根源的で自然なものなので、情熱や熱意も、いざ学べた時の魂の輝きも違ってくるような気がします。

世の仕事が単調でつまらないものになったのは、工場化で職人性が失われたこともありますし、企業の大規模化と業務の細分化・サイロ化により全体における自分の仕事の役割が見えにくくなったことや、チェーン化・マニュアル化されたことにより、個人の仕事の裁量が少なくなったから、ということもあると思います。それは、前回の記事、精神薬なしでは働けない社会に問題がある 、にも関係があることです。仕事にも学びにも「喜び」がない、自発性がない、裁量がない…だから人々はこんなにも病んでしまうのだと思います。低賃金、長時間労働などの物理的な問題もありますが、「自発的に生きられる喜び」という精神性・創造性が失われていることも、現代社会の大きな病理なのだなと感じています。

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