なぜ親は子に「勉強しろ」と言うのか

これまで自分自身の人生を振り返る中で何度も親子関係については考え、noteでも取り上げてきました。「もっとこうしてほしかった」とか色々な思いはありつつも、これだけは本当にありがたかったと思っているのが、親は私に「勉強しろ」と言ったことがない、ということです。このことは何度も書いていますが、本当に言われた記憶はなく、いつも自ら進んで勉強していたように思います。中学受験についても自分の意志で決めたことでしたし(むしろ公立でいいのにと言われていた)、「どこどこの学校に行け」と言われたことはありません。

親に勉強しろと言われたことがある人はたくさんいるでしょうし、親としての立場で子に言ったことがある人もたくさんいると思います。親はなぜわが子にこんなことを言うのでしょうね。勉強していい大学に行っていい会社に就職してほしいからでしょうか。特定の職業に就いてほしいからでしょうか。学校で成績が悪いと恥ずかしいとかみっともないとか、わが子が優秀だと周囲に自慢できるから、でしょうか。勉強ができた方が将来の選択肢が多くなる、とか、大人になった時に漢字もろくに書けないようでは困る、とかそういった思いもあるかもしれません。自分は大学に行きたかったのに行けなかったとか、自分が落ちた学校に受かってほしいとか、親自身の思いを託している場合もありそうです。(反対に経済的に苦しいから大学には行かせられない、勉強しないでさっさと働けと言われるケースもあると思います。これは教育にお金かかりすぎ問題、教育格差の話につながっていきますが、今回は「勉強しろ」のケースをメインに考えてみたいと思います。)

親はわが子を思ってのつもりで言っているのだと思いますが、これはどうなのでしょうね。子どもをコントロールしようとする発言ですからね。世間一般にありふれた些細な言葉ではありますが、私自身は「あんまりこういうこと言わない方がいいよなぁ」と思っています。親は「子どものため」と言いながら、本当は自分のために言っている(やっている)ことが多いもので、「勉強しろ」と言うのも、結局は親自身のために言っている節があるのではないかなと思っています。

親の体面のためや親の思いを託すパターンはわかりやすいですが、「いい大学に行っていい会社に入ってほしい」というのも、結局自分の老後の面倒を見てほしいという気持ちが元にあるのかもしれません。稼ぎが良い方が結婚できる可能性も上がるので、子孫繁栄に有利なように、という思いもあるかもしれません。いずれにせよ、親自身が安心したいという動機はあるように思います。「勉強しろ」という一言だけでも、親の思う通りの、親を安心させる人生を子に歩ませたいという期待や欲望が見て取れます。

親の子をコントロールしようとする発言については、色々な観点から語ることができそうなんですが、私が最近気になっているのが、日本が”家族で何とかしてね”という、いわゆる「自助」的な社会であるということとの関連性です。「公助」があまりにも少ないのではないかということ、そして、「親ガチャ」「家族ガチャ」的な要素が強いということです。家族内においての「経済的な問題」というのがとても大きいと感じています。それは結婚の段階からもそうですし(結婚相手に求める年収の条件)、ローン地獄や子育て・教育にお金がかかりすぎる問題とも関連してきますが、「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉にもあるように、家族の絆=お金の絆みたいなところがかなりあるように感じます。だからこそ、子どもへの経済的な期待と、そのためにコントロールしようとする発言も出てくるのではないかと考えたりしました。また、子に先天性の異常が見られることが明らかな場合に産まない選択をする、というようなケースも、家族への負担が重い自助的社会だからというのが理由の一つとしてあるように思います。

現代日本だけではなく、どの時代のどの国の社会においても同じような構造と問題を抱えているものだと思いますし、ある意味当たり前すぎて、そうでない家族や社会の在りようというのはなかなか想像できないものでもあります。この話を突き詰めて考えていくと、「じゃあなんで結婚するのだろう?」とか、「家族とは?」みたいな大きなテーマになっていって、なかなか簡単に結論が出ない話になっていきます。だからこそ考える甲斐があるのだと前向きに捉えつつ、詳しい続きはまた次の記事に書いていきたいと思います。

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