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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑭

前回の続き

前回の続き

ひきこもっていた当時は苦しみから解放されることを願う自分と、ひきこもりである自分には何かを楽しむ権利なんてないのだと考える自罰的な自分がいた。

鬱のような症状からくる寝たきりの状態を脱したひきこもり後半の時期は自分がひきこもりであるという後ろめたさから、両親が仕事で出かけている間に家の掃除や洗濯といった家事をよくしていた。

掃除をすることで気分がスッキリするという気分転換の側面もあったけれど、何もしないということの重圧は耐えきれないほどに大きかった。

実家ではあっても、そこにいさせてもらっているのだから何か対価を払わなければというプレッシャーが自分のなかに常にあった。
しかし、十分な対価を払えているとは思えずに、常に負債を抱えているような後ろめたさがあった。

そんな後ろめたさもあり、昼夜逆転していたときの生活ではなるべく自分の存在を消すように心がけていた。
トイレなどで部屋から出る際は、基本すり足で移動していた。
食事を温めるときはコンロは使用したけれど、電子レンジは音が気になって使わずにいた。
したがって、おかずは温かいけれど、ご飯(お米)はつめたいままのものをよく食べていた。

さらに実家は日本家屋で引き戸だったのだが、立て付けが微妙に悪くて開ける際に音が鳴った。
その音を最小限に抑えるための戸の持ち方も独自に編み出したりするぐらい自分が立てる音には気をつかっていた。

両親は両親で、私が食事をとっているか気にかけてくれたり、体調を心配して声をかけてくれたりしていた。(私は返事はろくにしなかったのだけれど)

ある意味、私と両親の双方が互いにぶつかることを避けていたようにも思う。

おかしな言い方かもしれないが、当時の私たちの関係は不安定な要素を抱えながら、それもひっくるめてバランスが保たれてしまっていた。
私がひきこもりであるという状況が変わることを願いながら、一方では今保たれているいびつなバランスを崩さないように頑張っていたようにも思える。

お互いにそれ以外の関わり方がわからなかった。

ただ何気ない会話をしたり、食事を共にしたりすることができたら良かったのだが、それはできなかった。
いざ向かい合うと、溺れるような苦しさがあるためにどうしても「助けて」「こんなに苦しいことをわかって」と両親にしがみつくかのように訴えたくなってしまうからだった。

そんなふうにして、両親と私は、お互いがお互いに気を使いながら、終わりの見えない日々を積み重ねていった。

「何もしないということで、息子に逆にひどいことをしていたのではないか、苦しめてしまっていたのではないか」

私が入ることになる施設の人が入所の説明もかねて初めて家に訪ねてきたとき、会話のなかで父がそう言った。
ひきこもっている私を責めるのではなく、見守るという選択肢をとった両親であったが、常に葛藤を抱いていたのだ。

両親が悩んでいることはもちろん知っていた。

一度、父が声を出して泣いた日のことを覚えている。
細かい内容は覚えていないのだが、私が10代の頃、父と話す機会があったとき、父の言動に傷ついてしまった私が涙を流して部屋に戻るという出来事があった。
どうしてわかってくれないのかと、悔しさと悲しさではち切れそうな体を布団に押し付けて歯を食いしばって、時間が感情を霧散させてくれるのを待とうとしていたら、生まれてから一度も聞いたことがなかった父の泣き声が部屋の向こうから聞こえてきた。
最初はその声が何かわからなかった。
父は自分を責め、振るえる声で謝っていた。

父のその声を聞いて胸がつぶれるように苦しくなった。
私はただただ悲しかった。
そして、こんなふうにしか関われない自分がやりきれなかった。

何が正解であったのかなんて誰にもわからない。

ひきこもりの早い段階で第三者の介入があればもっと早く外に出ていたかもしれないし、逆に第三者が介入することでよりこじれてしまう可能性もあったかもしれない。

ひきこもりの解決とは?

救いとは何か?

そもそもひきこもりとは解決すべきものなのか?

ひきこもりを問題とする捉え方がそもそもひきこもりを苦しめているのではないか?

考えだすと、本当に難しい。

みんなに当てはまるような100%な正解なんて、きっとない。

救われる面もあれば、傷ついてしまう面も必ずある。

かつての自分に何か声をかけるとしたら今の自分はなんて言うのだろうかと考える。

もしかしたら、1人自分の部屋で無言でいた私は、ある意味で言葉を持たないためにがむしゃらに泣きさけんでいた赤子であったのかもしれない。

けれど、いくら泣いたところで問題が解決するなんてことはなかった。

私はいつまでも言葉を見つけられずにいた。

飛び越えることも橋を架けることもできない溝がずっと目の前に横たわっていた。
社会と自分、両親と私、それぞれの間にある断絶。
私は、いつしかそんな景色や状況そのものに傷ついてしまっていたようにも思う。

ここで私が言いたいのは、ひきこもりが幼いということでは決してない。
ひきこもりが幼くて、ひきこもりでない人が大人だなんてどうして言えるだろう。
もし、ひきこもりとそうでない人をわけるなら、幼いか大人か以外の言葉が適切だろう。
分ける必要があるのか、分けることが適切かどうか疑問だけれど。

それとは別に私は大人がえらいとは思っていない。
かつてはそう思えなかったけれど、今は違う。

小さい頃の私にとって大人、あるいは親というものは何でもできる人を意味していた。
彼らは私の知らないことを知っていて、私にはできないことができる人たちだった。

だから私の気持ちをわかってほしいと思った。

だからわかってもらえないことに傷つき苛立った。

でも、なんでもできる人なんていない。

大人だって完璧ではない。

子である私だけでなく、親である二人も完璧なんかじゃない。

そんなふうに思えるようになった。

実家から出てからそう思えるようになった。
外に出ていろんな人と出会えたことがそう思わせたのかもしれない。
目の前に自分で取り組むことができるものがうまれたからそう思えるようになったのかもしれない。

そして、そのような経験を通して自分のなかに「人の気持ちはわからないのだ」という認識が芽生えたことにも気が付いた。

こんなあきらめにも聞こえることをひきこもっていた当時の自分に言ったら、怒られるかもしれない。

当時の自分は問題というのは理解されることでしか解決されないのだと信じていた。
理解されることによって自分は苦しみから救われるのだと疑わなかった。

でも、わからないということがわかることで、景色が開けたように思う。

わからないということが、行き止まりや断絶なのではなく、スタート地点になった。

そんな風に思えたときから、呼吸が楽になったような気がするし、不思議と自然に話せたり、親に頼ることができたりするようになったとも思う。
そして、両親に対して、自分のことをこんなに応援してくれるのかと驚きもした。

答えが見えないなかで、私のことを責めることなく、尊重し続けてくれた両親のことを本当にすごい人たちだと思う。
完璧な人はいないとわかったからこそ、彼らがなしてきたことのすごさやその重みを感じている。

当時は自分のことをわかってくれない、なにもしてくれない、産むだけ産んでおいてなんて勝手なんだと心の中で責めていた。

でも今は、とまどいながら、葛藤しながらも、見守っていてくれたことに感謝している。
振り返ると、二人は私の根本を否定することがなかった。

そんな二人の接し方が、私が誰かに接する態度の基礎になっているような気もする。

親子ってなんなんだろう。
それもまたよくわからないものごとの一つだ。

こんなに書いておいて、親子って不思議だなと、そんなぼんやりした言葉に帰着してしまった現状に、軽く苦笑してしまう。

けれど、そんなゆるさも心地よいなと思ったり。

あまり連絡がまめな方ではないけれど、お互い健康に気をつけていきましょう。
このnoteを見てくれているようなので、この場を借りて。

息子より。

宮崎にて、両親の後ろ姿


空になったグラスに水が注がれる。
軽く会釈してウェイターが去っていく。
目の前にはそれぞれの料理を食べている両親がいる。
今日は週末で、鹿児島から宮崎に両親が私を訪ねてくる日だった。
私は、最近経験したちょっとした出来事を話したり、聞きたかったことを尋ねたりする。
「今度市役所に行く用事があるのだけれど、その際に何か持っていかなきゃいけないものとかあるのかな」。
それは、他の人に聞くには少し照れてしまうような些細なことだ。
両親はそんな私の話をバカにするでもなく、聞いてくれてアドバイスをくれる。
心強いなと思う。
「ありがとう」すごく自然にその言葉を口にしている自分に驚く。
自分のなかのどこかにあった、硬いコルクの栓が知らぬ間に抜けていたような感覚だった。

完璧でないということは罪ではないのだ。

そのような人間理解は日々の生活の中で自分の不完全さに打ちのめされて倒れ込みそうになる私をそっとうけとめてくれる。

外に出てから10年弱が経ち、東京で一人暮らしを始めて丸4年になろうとしている。それでもいまだに自分の不完全さに打ちのめされそうになることはままある。
けれど、気がつけばいつだってそこからまた始まっていくように感じている。
そこが行き止まりでなく、スタートになっている。
世界はそこから開けていく。
そんな風に思う。

きっとお互いがそれぞれの不完全さを認められたなら、そこで初めて人は他者と出会えるのかもしれない。
そこから今までにはなかった言葉がうまれるのかもしれない。

話すことはあまり得意ではないけれど、少しずつ一緒に話ができたら嬉しい。


ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑭

終わり

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