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ひきこもりこぼれ話③

引いてください。

私は、取っ手の近くに書いてある指示に従い扉を開ける。
そして、店内に一歩踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
そう笑顔で言う店員さんは、私を席へと案内する。
席に着いた私にメニューを差し出し、「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」と言ってその店員さんは他の席へ別の注文をとりに行く。

私は、メニューに視線を落とす。

席に着いている私はお客さんで、それ以上でも以下でもない。

私はお客さんと言う枠にすっぽりとおさまっている。

逆に、はみ出していいよと言われても困惑してしまうぐらいに枠は膜のように私を覆っている。

枠から外れるとはどういうことだろうか。

店員を除いて、店内にいながらお客ではないということがありえるのか。
開いたメニューから顔をあげてそんなことを少し考えてみる。

店内に1歩踏み入れたら、ほとんどの人はお客さんになる。
そうでない人とは?
その店と取引をしている業者か、あるいは強盗かそれを捕まえにきた警察か。

それ以外にも最初はお客で、途中からお客でなくなるパターンもあるのだろうか。

そのような問いを立ててみたものの、私の思考力と想像力は冬の日に日向ぼっこをしている鳩のように羽をたたんで丸まっている。
「…」
枠を外れるパターンを考えるのは一旦置いておこう。
日向ぼっこの邪魔をするのはよくない。

私は基本として飲食店では食事をとるという目的をもってその場で期待されるお客という役割を演じる。
そう、枠にはまることを自然と受け入れている。
席に座って、メニューを手に取り、食べたいものを選び、注文する。
そこには筋書きがあり、セリフが用意されている。
舞台は設定されていて、台本も渡されているから、次に何をすれば良いのかわからないなんてことにはならない。
アドリブを求められることはない。
「勢いよく飲食店に入って、席にすわらず踊って!」なんて言う演出家も近くにはいない。

私はお客という役のまま、台本通り、「すみませーん」と店員さんを呼んで注文をすませる。

そうすることで、お目当ての料理が私の目の前に運ばれてくる。

役があって用意されたセリフを言うことの便利さを思う。

いきなり何の話か、と思われたかもしれない。
そう、今回は第3回目、ひさびさのこぼれ話。
「そう」が何の説明にもなっていないことには目をつむってもらって、例にならって筆の赴くまま、気の向くまま。
気楽にお付き合い願えたら嬉しい。

1回目のこぼれ話では父と母について書いたので、今回は兄と祖母のことを書いていこうと思う。

まずは、兄について。

私には学年でいうと2つ上の兄がいる。
兄の存在はひきこもりだった私にとって、とても重要な存在だったと思う。
兄は私がこの世で唯一、手放しに信頼できる人だった。
気兼ねなく一緒に遊ぶことができる友人であり、いつも私より少し先の世界を生きている憧れのような存在。
兄がいなかったら、きっと私の10代は何段階か明度の低いものになっていただろう。
金魚の糞という形容も甘んじて受けられるくらいに、幼いころの私はお兄ちゃんっ子で、四六時中、兄をおっかけまわしていた。
それにイラついた兄に「こないで」と言われることもしばしば。
そう言われても泣きながら付いていくような私だったから、兄は相当大変だったと思う。

兄好きの副産物として、当時の私は勉強やスポーツが自然と得意になっていた。
兄がすることをまねたり、一足先に自転車に乗れるようになった兄を走って追いかけたりしていたおかげだ。
勉強は同学年のなかではできるほうだったし、走力に関しては一番だった。
そのおかげもあってか、学校生活の最初のころは順風満帆とまではいかないけれど、そこそこ楽しい日々を過ごすことができていた。

兄の話からは少しそれてしまうけれど、小学生だった当時は、仲の良い友人も何人かいて、不登校になってからも中学生になる年齢まではお互いの家にいったりして遊んだりしていた。
友人と遊ぶことは楽しかったし、一緒にいられることが素直に嬉しかった。
でも、中学生になると友人が遊ぼうと声をかけてくれてもそれを断るようになった。
一緒に遊ぶ楽しさよりも学校にいっていないという劣等感の方が大きくなったのが原因だった。

私は中学校には1日も通っていない。

中学校。
小学生だった頃の自分にとってはいずれ自分が行くはずの未知の世界。
そこに行けることへの期待やあこがれがあった。

中学生。
大人ではないけれど、小学生からすれば比べようもないくらい大人な存在。
そういうものに自分がなっていくということが信じられないような、想像するだけでドキドキするような存在だった。

しかし自分が中学生になることはなかった。

小学校を卒業した私の存在は宙ぶらりんになった。
私だけがレールから外れて、みんなは見えないくらい遠くにいってしまった。

私とはなんなのか。
1人取り残された状況のなかで、そう問うても何も答えは返ってこない。

私はこの社会で、どのような位置づけなのか。

きっと、問題として認識される存在。

当時の自分はそう思い、自分を絶え間なく非難し続けた。

そんな中で兄といるときだけは、不登校である自分を忘れ、ただの弟としていられた。
親には学校に行けていない後ろめたさや、思春期の反発から関係性が変わってしまったけれど、兄との関係性は少なくとも私のなかでは変化することがなかった。

中学生になった兄は実家をはなれ寮に入っていた。
兄は週末だけ実家に帰ってきた。
不登校になりたての私に漫画、小説、インターネット、映画等といった文化をお土産みたいに携えて。

当時の私は、彼が返ってくる週末が本当に楽しみで、彼が返ってしまう日曜の夕方を本当に切なく感じていた。
土日は私にとって特別な曜日だったのだ。

今思えば、曜日という感覚は彼がいなかったら、早々に消えていたかもしれなかった。

学校に行っていないのだから、毎日が休みのようなものだろうと、思われるかもしれない。
でも学校がない生活を送るということは皆が共有している時計を私だけもっていないということを意味していた。
時計がないから、休みがいつかなんてわからなかった。
区切りのないのっぺりとした時間がゴムのようにいつまでも引き伸ばされていった。
それはゴールテープの位置をしらされないマラソンのようなもの。
それは一人だけ集合時間と集合場所をしらされない待ち合わせのようなもの。
そこには焦燥と不安と孤独しかなかった。
そんな中で兄が返ってくる土日は陸地の見えない真っ暗な海で見る灯台のような存在だった。

兄は私が不登校であること、ひきこもりであることを否定するようなことは一度としてなかった。
彼の前で私は不登校児、ひきこもり、という括られた存在ではなくただの弟の卓でしかなかった。
そのことに何度救われただろうか。

お互いまめな方ではないから、彼が大学進学で県外に出てからはたまにメール等で連絡するぐらいだけれど、今も兄は私の中で特別な位置づけにある存在だ。

時間がたった今から振り返ると、週末、お互い10代で、徹夜してゲームをしたり、映画をみたりしていたそんな日々が光を反射させている。
そのきらめきは私の目を自然と細めさせる。

続いては祖母について

私たちの隣の家に父方の祖母は住んでいた。
働くことが好きで、畑や田んぼで農作物を育てたり、季節労働的に一定期間アルバイトをしたりしていた。
祖母はよく兄と私にお菓子を買ってきてくれたり、自分で作った草餅やふかし芋をくれたりした。
それらを持ってきて、私や兄の名を呼ぶ声をいまでも思い出せる。
私や兄が小さいころは祖母が運転する三輪自転車の後ろの籠にのせてもらったりして遊んでもらっていたことも覚えている。

私たちに優しかった祖母だけれど、優しかったゆえに驚いてしまった記憶もある。
祖母と一緒に何かのドラマを見ていたことがあった。
その登場人物のなかに髪の毛を金髪に染めた若者がいたのだが、その若者の髪を見て「(私と兄に向って)、二人がおなじように髪を染めたらビンタするからね」と当然のように言い放った。
なんか理不尽だなーと思いつつその気持ちを言語化できないままモヤモヤしたというか少しぷんぷんと腹を立てた記憶がある。
なんていえば良いのかわからなかったから、言い返したりはしなかったけれど。

そのような価値観をもっている祖母だから、不登校についてもかなり反感を持つのではと考えるのが妥当なような気もする。
しかし、意外にも祖母は相変わらず私に優しかった。

学校に行かずに家にいる私に「たくー」といつものように家のそとから私の名を呼んで、お菓子やパンといったものを渡しに来てくれた。
祖母も兄と同様に私が不登校であることには一回も言及することがなかった。

10代の中盤以降は誰かと接することに対する抵抗感が増して、祖母の呼びかけにこたえるということもなくなった。
それでも祖母はお菓子をもってきて、家の外に置いていくのだった。

数年が経って、祖母が認知症となり、自分では買い物や調理ができなくなってからも、たまに貰い物の食べ物を私や、県外に行った兄の名前を呼びながら持ってきてくれた。

祖母の呼びかけを無視してしまうことの辛さが、人と対面することのしんどさに勝ったときは、玄関の鍵を開けに部屋を出た。
でももう、祖母は私が誰であるのかわからなくなっていたけれど。

彼女の記憶のなかでは小学生かそれ以前の私が元気でいてくれるようだった。

私たちの家の隣に住んでいるとはいえ、生活を送るのが難しくなり不安そうにしている様子が増えた祖母だったけれど、今はグループホームで楽しく過ごしているとのこと。
自分の家を離れることに抵抗をしめすものかとばかり思っていたけれど、誰かと一緒に話したり働いたりするのが大好きだった彼女らしいなとも思ったり。

ただ、ひきこもっていた時期にちゃんと彼女の呼びかけに応えられなかったことが心残りとしてある。

10代、20代前半の頃、学校にいっていない自分、ひきこもっている自分が他者とどのように接すれば良いのか私には、わからなかった。
言うなれば、役を剥奪されて、エキストラですらない人、すなわち場違いな人として舞台の上に立たされているような気分だった。
その気まずさや手持無沙汰な状況からとにかく逃れたいと願った。
私が知っている舞台は学校か家で、役は、生徒と教師、生徒と生徒、親と子(親と学校に行っている子)ぐらい。
手持ちの台本もそれらのもの以外にはなかった。
必死で他の台本を探すのだけれど、そんなものはどこにも見当たらなかった。
そのようにして私は舞台の上で発することができる言葉を失くしたのだった。

不登校支援では再び学校に通えるようになること、ひきこもり支援では働けるようになることがゴールに設定されると考える人は多いのではないだろうか。
それはある意味、支援というものが既存の役に戻れるようにすること、既存の役にはまれるように矯正することだと言える。
そのような発想は、舞台が1つで、演目も1つしかなく、役にも限りがあるという考えから生まれてくるのだろう。
きっと人はその舞台1つしか知らないのだ。

でも本当にそうなのだろうか。
学校や企業、それだけが舞台で、そこにしか役柄は存在しないのだろうか。
人が生きるとはそれだけなのだろうか。
人はそこだけでしか生きられないのだろうか。

そんなことを最近考える。

不登校やひきこもりは甘えと言われることもあるけれど、本当にそうなのか。

社会とはたった一つの舞台で、子どもは学校で勉強し、大人はどこかに勤め働くという役を割り振られているのだから、勝手に役を放棄するなんて言語道断。そんなことをしたらみんなに迷惑がかかる。
そのように憤慨される人もいるだろう。

しかし、不登校やひきこもりを経験した身からすると、逆にその既存の役をこなすだけの方がある意味楽な場合もあることを私は知っている。
面倒だから、嫌だからといった理由だけで不登校やひきこもりになるのではない。
どうして学校に行けないのか、どうしてひきこもっているのか自分でも言語化できない人はきっと多い。

仮にあなたがとある俳優だとして、次の場面を想像してほしい。
その場面を投げかけて今回のこぼれ話を終わりたいと思う。

あなたは台本を開く。
そこにはセリフではなく、以下のような説明しか記されていない。

・あなたは今、飲食店にいます。
・あなたは飲食店に入ったばかりでまだ座っていません。
・しかし、席には座らないでください。
・店員に話かけないでください。
・メニューを開くのもだめです。
・飲食は禁止です。
・あなたの役はお客ではありません。
・店員でもなければ、そこに出入りする業者でもないし、強盗でも警察でもありません。
・お客ではないので店員はあなたを席に案内しません。
・業者ではないので店員は相手をしません。
・強盗でもないので店員は警察を呼んだりもしません。
・店から出ることはできません。

※あなた以外の人は同じ台本を持っています。あなたの台本だけ別のものです。
カットという声がかかるまで演技を終えないでください。

「それでは撮影を開始します。」

「ヨーイ、アクション!」


ひきこもりこぼれ話③

終わり


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