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ひきこもりこぼれ話①

ここまで1回目をのぞいて、時系列を追って書いてきた。
不登校、ひきこもりだったあのころから時間を経たことで、風景をスケッチするみたいに少し余裕を持って書くことができている。
苦しみの渦中にいたら、きっとこんな風には書けないのだと思うと、着実に時間が過ぎていることを感じる。よくも悪くも。
ただ、シリアスな展開が続いていることもあってか、少し肩が凝り気味な気分でもある。

今回はストレッチするみたいに、ゆったりと書いてみようと思う。
あまり本筋とは関係ないかもしれない。
ひきこもりこぼれ話。
あるいは道草を食べるようなお話し。

唐突だが、ひきこもっていたころの私の人間関係、というか当時の登場人物紹介をしてみる。紹介というよりは印象や思い出のあるエピソードのようなものをつれづれに書いてみたい。

今のところこの文章の着地点は見えていないけれど、高いところからカエデの種を落とすみたいに私自身もその行方をただ眺めていたい、そんな気分。ストレッチ。

父について

父に対する印象は子どものころと今とでは大きく異なっている。
父は、私が子どものころ、亭主関白とまではいかないけれど逆らうことがゆるされない存在で、彼が仕事から帰ってくると家の中に緊張感が生まれた。
冷水でしめられる茹でたてのそばみたいに身の引き締まる思いがしたものだった。

しかし、今はマイペースでのびのびと生きているような印象がある。
もしかしたら、昔は彼にとって父親としての役割というものが重荷であったのかもしれない。
もともとがマイペースな人なのではとも思う。
彼は絵画や陶芸が好きで若いころは美術大学にいきたかったらしい。
私が子どものころ休みの日に彼が油絵を描いている光景は見慣れたものであった。
また読書家でもあって何冊かの本を同時進行で読みすすめているような人でもあった。

父とのエピソード

父を思い浮かべると、玉虫が連想される。
父にもこのことは言っていないから、父すらどういうことかと思うかもしれないけれど、それらは切り離すことができないものとなっている。
父と玉虫とは私の中で結びつきを持っているのだ。
あまり良い意味ではつかわれない形容詞に「玉虫色の」というものがあるが、そんな言葉を知らない子どものころの私に本物の玉虫は世界に隠された宝、あるいは未知なる世界の使者のように映った。
そんな玉虫を父はよく見つけてくれて、私の手にのせてくれた。福音を告げてくれる人のように。
世界ってすごいなと思ったり、こんな素敵なものを見つけられる父ってすごいなと思ったことを覚えている。

ちなみに今実際、生きている玉虫が現れたら、触れるか自信はない。
あくまで象徴としての玉虫は良いものだと思う。
虫好きの人に怒られるだろうか。

父のことを思い起こすときにこのエピソードが出てくるのは、私が上京して、ある程度実家と距離をとれているからなのだと思う。
また、今度書くことになるとはおもうが、実家にいたころは、彼あるいは両親に対して、もっとネガティブな印象しか抱くことができなかった。
人を尊重するには距離というものが果たす役割は大きいのかもしれない。

母について

しっかりした人という印象。母のことを表そうとするとまずそれが頭に浮かぶ。
公務員として働きながら家事もこなして、生活における実際的な手続きをきちんと処理していく人。
やや心配性なところがあるだろうか。
そして、千鳥格子柄。母が職場に出かけるときはその柄の服を良く着ていた。
幼稚園に行く前の身支度や、送り迎えのとき、その柄が私の顔のすぐ近くにあった。

現在は仕事を退職して、お菓子作りや、楽器の練習などして、セカンドライフを満喫しているようだ。

母とのエピソード

母を思い浮かべると、街灯もなく対向車もほとんど無い暗い夜道を車で走行している場面が思い出される。
その光景は、私がまだ小学校に入る前、車で母方の祖父のお見舞いにいった帰り道である。
当時の私は祖父が癌であることを知らなかった。
週末になると頻繁にお見舞いに行っていたことから、祖父の状態は悪かったのだと思う。
お見舞いにはほとんど私と兄、そして母の3人で出かけていた。
やんちゃざかりの私はお見舞いも、少し長距離のドライブのようにしか感じていなかった。
家から病院までは車で1時間半くらいのところにあった。
お見舞いを終えて、帰る時刻には日が暮れていた。
車内には音楽が流れていて、後部座席には幼い私と兄が並んで座って居る。
私は、病院近くのケンタッキーで買った焼きおにぎりを食べ終わり少しうとうとし始める。
窓の外には夜空よりも真っ暗な杉か何かの林が広がっていて、もしかしたらそこに誰かが潜んでいるのではないかという空想が幼い私を怖がらせる。
左隣をみると兄が船を漕いでいて、私は心細くなる。
運転席の母はヘッドライトが照らす道を見つめ時折音楽にあわせてハミングをする。
母が起きているし、音楽は流れている。
外の暗闇は不気味だけれど、その不気味さに比例するように車内はあたたかで安心な場所であった。
気が付けばいつも家の駐車場で目が覚めた。

気が付けば予定よりも字数を割いてしまった。
もう少し簡潔に書いて、あと数人と数匹を書くつもりだったのだけれど。
それはまた別の機会に、肩が凝ったときのストレッチの時間として楽しみにとっておこう。

誰も拾わないようなこぼれ話だと自分でも思う。こぼれ話というか全然関係ない話になったような気もする。とても個人的な、あるいは誰もが素通りするような風景のスケッチみたいな内容になってしまった。

ただ、筆が進むにまかせて書いてみると、今の私の父と母に対する印象が上手く浮かび上がったような気もする。

距離ができたからこそ、見える景色、描ける景色なのだろうと思う。
これはきっと近くにいたら書けなかった文章だ。
当時は孤独で苦しさだけしか感じられなかった。
状況が変わる兆しは微塵もなくて、過去はよそよそしく、未来は姿を消し、現在は行く手をふさがれた流れのように濁っていた。

あてもなく書き進めた今回の文章だけれど、書くことで気付けたことがある。
それは、本当に少ない登場人物だけれど、ひきこもっていた13年間やそれ以前にも、誰かがいてくれたという記憶があることの嬉しさだ。

他の人と比較したら圧倒的に少ない記憶かもしれない。彩りも少ないかもしれない。
でもそれでも、記憶がともにあってくれたこと、あってくれることを嬉しく思う。

次回からまた本筋を書き進めて行こう。
本筋の方の着地点はまだ定まっていないけれど、少しずつ書き進めてみたい。

カエデの種がくるくると回りながら落ちていく。


ひきこもり、こぼれ話①

終わり


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