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ひきこもり歴13年から今にいたるまで④

インターホンの音。
心臓が石のように硬くなる。
平日の昼下がり。
私は、居間で見ていたテレビを慌てて消す。
そして、足音をたてないようにそっと、玄関から一番遠い子ども部屋に入り、学習机の下に潜りこむ。
もう一度インターホンが鳴らされる。
誰かが玄関の外に立っている。
部屋の中が覗かれているわけでもないのに、「そこにいるのはわかっているのですよ」と糾弾されているようなきがして、不登校の私は心の中で、ごめんなさい、ごめんなさいと念仏のようにくりかえしていた。

玄関の前にいるのはセールスや宅配の人だろうということはわかるのだけれど、当時の自分にとってその人たちは魔女狩りを行う人たちのように感じられた。自分は見つかったら焚刑に処される異教徒だった。

机の下で息を殺している間、そこにはふくみのある静寂が流れた。

「そこにいるのはわかっているのですよ」

そんな架空の声が聞こえてくるような気がして、学習机の下で目をつぶり、両手で両耳をふさいで、消えたい、消えたい、とただそれだけを願った。

当時のことを振り返って、わざわざ机の下に隠れるなんて、そこまですることはないだろうと思ってしまいそうになるけれど、あのときの自分はそうせざるをえなかった。

今回は、学校に行かなくなってからのことを書いていこうと思う。

保健室登校もできなくなった小学6年生のころから、私は一日中、家で過ごすようになった。

私が不登校になった頃、両親は共働きで、日中の家には小学生の私1人だった。

当時、母が働いていた職場は家の近くにあったため、母は昼休憩の時間になるとお惣菜を買ってきてくれて、一緒にご飯を食べた。その時間が日中で一番安心できる時間だった。母が乗って帰ってくる車の音が聞こえると、嬉しくなった。

母が職場へと戻る時間になると、決まって「行ってほしくない」と駄々をこねた。母の気を引こうとして、トイレに閉じこもったり、縁側のカーテンにくるまって、てるてる坊主みたいになって、じっとしていたりした。

そんな子どもを残して仕事へ戻らなければならないというのは、相当のエネルギーがいることだっただろうと思う。

母が乗る車の音が遠ざかっていく。

もしかしたら戻ってきてくれるかもしれない。

そんな淡い期待を抱いて、耳を澄ませるけれど、聞こえてくるのは私以外誰もいなくなった部屋の静けさだけだった。

その当時、怖かったものがある。冒頭にも書いたインターホンの音と、電話の音だった。

本来なら平日の日中、小学生は学校にいるはずで、家にいるなんてありえないことだった。ありえないのに、私は家にいて、そこにインターホンや電話の音が鳴らされる。それは、糾弾あるいは告発の声だった。

「どうして、家にいるのだ」と責められているようで、身がすくむようだった。

母が帰ってきてくれるお昼の時間と、陽が沈んでから(学校が終わったあと)の時間が比較的ではあるが、落ち着ける時間で、日中はびくびくしながら過ごしていた。

保健室登校もできなくなっていたとき、親に連れられて沖縄のフリースクールに見学に行ったことがある。

両親も私のことで相当に悩んでいたと思う。

「学校に行きたくない」と初めて父に告げたときは頬をぶたれはしたが、それ以降は強く学校に行きなさいと言われたこともなかったし、学校に行けない私を非難するようなこともなかった。

フリースクールへの見学は両親からの提案だった。

当時、小学生だった私からするとフリースクールというものは言葉しか知らなかったし、沖縄という場所と相まって、旅行ぐらいの認識でいたと思う。

もしかしたら、そこには私が身構えないようにという親の配慮もあったのかもしれない。

県外であれば知っている人に会うこともない、ということも沖縄に行こうと思えた理由だった。

季節は覚えていないが、夏ではなかった。宿泊したホテルの窓から見えた浜辺に人の姿はほとんどなく、どことなく祭りの後のような静けさが漂っていた。

正直、訪れたフリースクールのことはほとんど記憶にない。

覚えているのは、廊下に置かれたソファで自分より年上らしき少年が眠っている風景や、職員の人と私の家族で話をしている場面で自分が泣いてしまったということぐらいだ。

どうして自分が泣いているのか自分でもわからなかった。

職員の人から同情的な言葉をかけられたからなのか、自分の気持ちをうまく言葉にできないからなのか。

フリースクールを見学しながらも、そこに自分が通うとは頭から考えていなかったと思う。

当時の私にとって不登校になってからも、自分が生きるべき世界=学校という考えが強かった。学校以外の世界というのを想像できなかった。だから、フリースクールが選択肢に入る余地すらなかった。

フリースクールにも学校にもいけない。家にいても自分がいけないことをしている気がして休まらない。手詰まりだった。行き止まりだった。

そして当時の私の口癖は「消えたい」になった。

手品みたいに箱の中からぱっとなくなってしまえたら、私の代わりに別の誰かが現れてくれたなら、とそんなことばかり考えていた。
当然だけれど、そんなことをしてくれる手品師はどこにもいなかった。
私は、消えることも、入れ替わることもなく家の中に、そして自室のなかにずっと残され続けた。

そして、次第に強迫性障がいの症状が出始めていくことになる。


ひきこもり歴13年から今にいたるまで④

終わり



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