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【エチュード05】カミナリ・電車・老人

※関連のない3つの単語を使った小品を作る、という習作企画。全12回。

 車窓を叩きつける激しい雨。そこここが錆び、赤茶色に古びた車体が、強風にあおられてギシギシときしむ。空は昼夜が分からないほど暗く淀み、時折大地に打ち付けられる刹那の稲光が、その暗さをさらに深くする。ややあって響き渡る雷鳴は、ゴトン、ゴトン、と規則的に聞こえる例のあの音を切り裂き、一瞬の後には霧よりも儚く掻き消える。

 気がつきなされたか、とその老婆は言う。

 あなたはなぜ自分が電車にゆられているのか覚えておらず、ただきょとんと、周囲を見渡すばかり。
 車内には、色褪せたビロードが張ってある向かい合わせの長いすが並び、床はこげ茶色で砂埃にまみれ、窓枠の荒いペンキは所々ひび割れ、ぼろぼろに剥げている・・・古ぼけた内装は、ノスタルジックというよりはむしろ、打ち捨てられて久しい旧世代の異物といった趣で、極端に薄暗い車内の明かりは、廊下に時折ぶら下がるレトロなランプのみ。ランプはみな一様に、列車の揺れに合わせて、キイコ、キイコと悲鳴のように不愉快に軋みながら、ほろほろと頼りない灯火の明かりを周囲にこぼしている。

 まだまだ、到着までにはかかりますじゃて、ゆっくり休みなされ。

と、長いすの向かいに座る老婆は続けた。老婆の姿は背後のランプの光を受け、ほとんどシルエットしか見ることができないが、どうやら古く粗末な和服を幾重にも着込んだ、背の低い人物であるようだ。髪は整えられておらず、乱れた白髪には所々黒い通常の毛髪も混じっているが、それらはロマンスグレーと言えるほど上品ではなく、むしろ老婆の薄気味悪い雰囲気を増幅しているように思える。暗闇を透かして二つの目玉が光っているのは見えるものの、その表情までは、あなたには読み取ることができない。

 あなたは、ここがどこなのか、なぜ電車に乗っているのか尋ねてみた。だが、老婆は何も答えず、ややあってただ、こう言ったのみだった。

 今はただ、ゆっくりとお休みなされ。

 稲妻が轟き、老婆の眼光が鋭く輝く。有無を言わさぬという老婆の声の調子に、あなたは背筋に寒いものを感じ、とっさに硬い長いすから飛び上がった。薄暗い車内にはツンとする薬品のにおいがかすかにただよい、そのせいかどうか、立ち上がったあなたの意識は、朦朧とした幻灯のようにぐらぐらと回り始める。なんとも気持ちが悪い。

 やめておきなされ。ドアの向こうに出ると、戻れませんぞ。

 老婆のしわがれ声が、車内にぴしゃりと響く。だがあなたはその声を無視し、ふらつく体で長椅子の背もたれにつかまりながら、じりじりと隣の車両へのドアに近づく。
 金色に鈍く輝く真鍮のノブがランプのほの暗い明かりを映し、ドアそのものの存在感を薄れさせていく。
 急がないと、あなたがたどり着く前に消えてしまうかもしれない。
 視界がひどく揺らめく。
 長いすが、天井が、床板が、窓枠が、だんだんぐにゃぐにゃとゆらぎ、曲がり、あなたへ向かって倒れ掛かってくる。

 電車はずっと小刻みに、ゴトン、ゴトンと規則的な音をともなってあなたを揺らす。雷雨はいっそう激しく、今にも窓枠を叩き割らんとする勢いで降りすさぶ。遠くからカラスの鳴き声が聞こえるも、瞬時に遠ざかり消滅する。轟音とともに興る一瞬の光が、車内に純白の闇をもたらし、あなたの目を眩ませる。

 あと数歩、なぜたどり着けない。目が回る。

 激しく揺らぎ回転する周囲の情景。とうとうあなたは、自分が埃っぽい床に伏し、倒れているのを感じた。和服の老婆がいつの間にかあなたの傍らに立ち、黒くおぼろげな姿の中に二つの鋭い眼光をたたえ、あなたをぎろりと見据える。

 無駄じゃ、やめなされ。やめなされ!

 あなたは最後の力を振り絞り立ち上がる。感覚のない手足を振り回し、激しく回転する周囲の中から、雷光を受け輝く一点を見つけ出そうと抗う。

 そして、震える手を必死に伸ばし、幾度か空をつかみ、やがて・・・ひんやりと冷たいそれを、真鍮のノブを掴み取った。

 やめろおおおおおおおおおお!!!!

 不意に老婆が髪を、衣服を振り乱し、あなたに襲いかかる。
 乾燥した骨と皮の手が、あなたにむかってにょきにょきと伸ばされる。
 突然窓ガラスが音を立てて砕け、車内に吹き込む風雨が、哀れな老婆をさらに哀れで恐ろしげな姿に変えてゆく。

 雷鳴
 悲鳴
 爆音
 悪臭

 ランプが立ち消え、車内が闇に呑まれる。老婆は闇と同化し闇そのものとなり、あなたを引き戻そうと激しく掴みかかる。二つの目玉が爛々と輝き、あなたを射抜こうと狙いを定める。

 だがその時、ノブの確かな感覚だけを頼りに、あなたは扉を押し開け、向こう側に体を滑り込ませたのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「心拍、回復しました!!」
「よし!蘇生作業終了。搬送急げ!」

 あなたは目を開けてみたものの、まぶしくて周囲の様子が分からなかった。あなたの耳元で、力強い男性の声が
「よかった・・・よく帰ってきてくれた。」
と、安堵の言葉を囁いた。

 翌日、新聞の一面を飾った記事をあなたが目にしたのは、それから数日後のことであった。

『通勤電車、正面衝突・・・奇跡の生存者、1名のみ』



「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)