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朝井リョウ『正欲』で、多様性を謳う覚悟を問われた

社会の中で「そんなものが現実にあるわけがないだろう」「普通に考えておかしい」「きちがいは隔離してほしい」。そう多数派が笑って済ますようなこと、あるいはさも当然という顔で主張することが、誰かの人生を抑圧する。その事実を突きつけられた時、多くのことをマジョリティとして深く考えずに享受し、さらに恵まれた環境で育った私は自分の無力さに愕然とする。自分なりにコンプレックスと向き合ってきた人生はおままごとのように見えて、そこで試行錯誤、時に涙を流していたようなこと自体が、誰かを傷つけうることなのだと思うと、ひどく暗い気持ちになるのだ。

自分の経験してこなかった大変さへの罪悪感や、理解しようと思ってもできないことへの申し訳なさを昔から感じやすい。だから私は少し鈍感な異性、神経質ではない人間というのに惹かれるのかも知れず、辛い時に辛い事実をただそのまま受け止めてくれるような人を好きになる。異性愛者、社会の中で一番認められやすい欲望を持つ分類へとカテゴライズされる。まさに“正しい“欲望。

朝井リョウさんの『正欲』というタイトルの本の中で、正しさとはただ大多数が自分を正当化するために正しいと決めたことにすぎないような気がしてくる。学校へ行くこと、異性を好きになること、仕事に就くこと、結婚すること。いちいち理由なんてないよねという態度でいることによって、そのレールに乗っている間は自分を正しいのだと思える。

最近、多様性という言葉はどこに行っても聞こえてくる。自分の会社の中期目標にも、多様性という言葉は入っていて、でも例えばそれはざっくりと人種や男性と女性といった解像度の低いものだ。その区分も、何を推進するのかも、何を「見えている弱者」として扱うのかも、マジョリティが決めるもの。その傲慢さを、多数派に属することによって背負わなくてはいけないこと。どうしようもなく無力で、そしてどうしようもなく無思考な集まりの中で私もきっと生きてきた。

『正欲』の中では、水に性的興奮をする人たちが描かれている。水の飛沫、勢い、形状、爆発。人には興奮せず、思春期から同僚との飲み会まで、ずっと誰にも理解されないという孤独を感じてきた人たち。彼らを描くことは、男女平等とかいろんな生き方があっていいとか、LGBTQ+とか大きな声を上げながら、それでも片手で数えるほどしか変化しない社会への痛烈な批判にも思える。多様性って、どこまで覚悟して言ってるの? と。欲望という動かし難い根っこの部分だからこそ、社会に認められないということは、いてはいけない人間なのかという疑問に直結してしまうのだ。

受け止めて変えていこうとか、彼らにとっていきやすい場所にしようとか、そういう社会=マジョリティであるという前提に立って議論していることに、大多数の人は気づかないのだと思う。私自身も気づけなかったと思うし、だからこそ自分の周りにどんな人がいて、どんな飲み会での会話があって、私が話したことの一片が誰かをえぐっていたのだろうかと落ち込む。きっと誰でもそうだろうが、自分と違う人のことを知らず知らずのうちに傷つけてしまう。それを私は、仕方がないよねと開き直ることも、かといってごめんなさいと闇雲に謝ることもできない。きっと正解はない。

繋がりはきっと多数派が「与える」ものでも「認める」ものでもない。一方で、自分一人だと思っている人たちが生きるために必要とするものでもある。傲慢な態度であるかもしれないけれど、多数派が世の中を変えようとしないと変わらないというこの矛盾は、どんな社会になってもずっと消えることはないのではないか。今のところは当事者ではない私が、できることはなんなのだろう。そもそも何かをしなくてはいけないと思うことこそが、誤った正義感なのか。そうだとしても、普通はどうだとか絶対そんなことはないとか、そういう言葉は人に対して使わないようにしたいと思う。

社会を見る目が変わり、自分の無力さを知る。私たちは自分が傲慢な生き物であるという自覚を持たないと、簡単に誰かの人生を否定するのだということだけは覚えておかなくては。

朝井リョウ『正欲』


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