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1年前ミャンマーにいた私が今回のクーデターで振り返らなければいけないと思うこと

ずっと書かなくてはいけないと思っていました。

2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起こってからというもの、アウンサン・スーチー氏は解放されず、最大都市ヤンゴンではデモが起こり。どうして、どうなっているの。そんな思いはぐるぐるするのに、なかなか文章にしてちゃんと向き合うことができずにいました。でも、自分が感じていたことを他人事にしてはいけないと思い、こうして残すことにします。


クーデターから今日まで漠然と考えていたこと


1年前の今、私はミャンマーにいました。

2月の初め、クーデターの日、私は同じことを思いました。

なんで。1年前私はそこにいたのに。

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振り返ってしまえば、それが遠くの話ではなく自分ごとに戻ってきてしまうようで、軍事クーデターという言葉が教科書から出てきてしまいそうで、私は何かがこわくてちゃんとそこで見たことを振り返ることから逃げていたような気がします。

たった1年で社会がひっくり返ってしまう。たった1日で生活が変わってしまう。それはとても恐ろしいことに思えました。それを、そこに暮らしている人に重ねて想像する悲しみの深さに、私は途方に暮れました。


そもそもミャンマーを私が訪れた理由は、上智大学卒業前にどうせなら何か海外プログラムに参加してみようかなという軽い気持ちでした。スタディーツアーの中で教育分野を扱うものはミャンマーしかなく、それでたまたま訪れた場所だったんです。それは約2週間のうちにヤンゴンとタウンジーで学校及び国際機関等を巡るツアーでした。


ミャンマーの人々の学ぶことへの意欲


ふわっとした気持ちでいった私とは反対に、ミャンマーで出会った人々の学ぶことへの意欲には圧倒されるものがありました。幼稚園児から大学院生まで、学ぶということに対する貪欲さが日本で大学生をやっているときには感じることがないほど、伝わってきたのです。

日本で大学生をしていると、なんて学生はお気楽なものだろうといつも思います。そもそもほとんどの人にとって「勉強」のピークは大学入試であり、その後はアルバイトに明け暮れたとしてもサークルで飲んだくれたとしても、ある程度決まった道を進むことができます。適当な会社に就職し、たとえ外国語が話せなくても日本で死ぬまで安全に生きていくことができると疑わないのです。

でも、ミャンマーの人々にとって学びは生き方を文字度取り左右するものでした。英語ができなければ、いい大学に行けず、いい大学に行かなければ、その後海外にでられる道は絶たれる。もしくはいい仕事に就き、家族を支えていくということができなくなる。だからミャンマーの人々は親も子供に勉強をさせることに力を注ぐのだそうです。

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その時は、わたしはすごい、これでは日本は敵わない、とそう思っただけでした。これがこの国が急速に変わるために備えている力なんだと思っていました。東南アジアの多くの国が、急速な発展を遂げているということを私は目の当たりにした気持ちでいっぱいだったんです。まだ十分とはとても言えないインフラや、交通網なんかも、その混沌は東南アジアらしい熱気に思えました。

それでも日本が敵わないと思った理由は、彼らが田舎でも都市でも、裕福でもそうでなくでも、年齢を問わず英語に触れ合っていると感じたためです。英語ができなければ生きていけない、そう焦っている学生は多いように感じました。また、彼らが日々自分の社会や世界に対して抱いている問題意識というものが、平和ボケした日本では感じることのできない密度でそこにはありました。

西ヤンゴン大学(EYU)で最終プレゼンをした際に、私達は彼らの学びへの熱心さに感動を示さずにはいられませんでした。


動き始めたばかりのように見えた民主化


ありがたいことに、私達は小学校の教科書改定の現場を訪れることができました。ミャンマーでは軍事政権時代につくられた教科書が10年以上改定されていないまま使われている事も多かったと言います。これをミャンマー国家と連携して進めていたのはJICAでした。CREATEというプロジェクトで進んだ初等教育の教科書改定の取り組みは、人々によりよい教育を届けるためにまさに進行中でした。

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大学を訪れた際にも、軍事政権時の名残がありました。私達が訪問した西ヤンゴン大学はヤンゴン中心部からは車で1時間はかかる離れた場所に位置します。軍事政権時代に学生たちが集結して国家に反旗を翻すことを避けるため、その力を分散させたそうです。発言力の強かった教授も、中心から離れたところに飛ばされることがあったようで、軍の支配下に長くあった国だということを実感しました。

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一方で、私が訪れたちょうどその日は学生連合の代表の選挙を行っていました。大学の中で学生達をサポートする団体であるその自治組織を、自分たちの手で決めていく選挙です。候補者の一人で後の学生代表が、学校案内に付き添ってくれていたのですが、彼は自分で選択して未来を選んでいくということに使命感を感じているようでした。ヤンゴンで出会った学生の多くは、未来を海外に夢見る人も多いと感じました。

また、彼らは教師中心の教育に大して強い反発を持っていました。いわゆる強い詰め込み型教育を受け、教師の言ったことが全てという環境にいる彼らにとって、それは拒絶したくなるほどのものだったようです。どれくらい教師が全てかと言えば、質問はよくないこととされるそうです。さらに、例えば英語の試験で「What fruit do you like?」(好きなフルーツはなんですか)という問いが出たら授業で先生が言ったとおり、教科書に書いてあるとおりのことを書かないと正解ではないのです。先生が「I like apples.」(りんごが好きです)と授業で教えていたら、たとえテストでオープンクエスチョンで問われたとしても「バナナが好きです」では間違いなのです。

しかし1クラスの学生数が多く教員の質も担保されない中では、生徒中心にするのは難しいことです。それでも彼らには理想がありました。自分たちの手で、未来につながる学びをしたい。意思を持ち、発言する学生たちの姿でした。

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MLIという大学院生のプライベートな学習塾施設に行ったときは、仕事をしながら通う人も多い印象でした。そこには、2020年から奨学金を得て、上智大学に留学することができることが決まったという女の子もいました。学ぶことが未来を作る。彼らははっきりとそう口にしました。4月から日本に来ることを楽しみにしていた彼女は、コロナの影響を受けて結局ここに来ることはできませんでした。彼女の未来が1年も経たない間にいくつもの分岐点でそれていって、今こんな状態になっていると誰が予想したでしょう。


タウンジーでSAGという私立のキリスト教学校に行ったときは、ヤンゴンを目指す学生たちに多く出会いました。田舎から出て、家族を支えることができるようになりたい。そのために毎日深夜まで自主学習をする生徒たちは、質素な共同生活と厳しい勉強の先に歩んでいく将来まで見据えていました。自分たちが生活する共同体をよりよくしたいと願う学生も多くいました。そのために社会課題の解決の重要性を授業でも積極的に取り入れている様子や、週末に年下の子供たちにボランティアで勉強を教えている生徒も見られました。

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彼らは、私達よりもよっぽど多様性について理解していると思いました。民族のアイデンティティを強く持つ彼らは、逆にミャンマー人としての意識をそこまで強くは持っていないといいます。私達は日本人と自分のことを紹介しますが、彼らは出身民族こそが自分を表すものなのです。

その上で、共通の言語を理解し、違う文化の人と共存することを求められているのがミャンマーの社会でした。そのアイデンティティが国の発展によって均一化されて消えてしまわないでほしいと思ったのも事実です。その時は、国は希望に進んでいくと思っていたから。


軍事クーデターが起こった日


ミャンマーが大変なことになったみたい。

母から仕事中に送られてきたLINEにはそれだけが書かれていました。お昼になってニュースを検索すると飛び込んできた軍事クーデターの文字。

一体どういうこと?

なぜ、こんなことが民主化に動いていた社会で起こるの?



軍事政権が50年以上続いていたミャンマーでアウンサン・スーチー氏率いるNLDが選挙で勝ったのが15年。しかしそれからも議会の4分の1は軍が持ち続け、思うように与党が政治を進められない状況が続いていたといいます。

しかしだからといって、日本で平和ボケして過ごしている私は軍事クーデターが起こるとは思っていませんでした。軍の力がいつまでも強く無視できない国でも、世界は民主主義に進んでいけるとなぜか安心していました。

インターネットが絶たれ、銀行が閉まり、デモが起きる。

私が出会った人たちは、今どうやって生きているのでしょうか。彼らはきっとデモに立ち上がるような若者たちです。無事でいてほしいけれど、彼らにとって軍事政権下で生きる「無事」はなんにも無事ではないのかもしれません。そんな生活を想像したことがなかったからこそ、何もできない自分の不甲斐なさと守られた社会で生きている無防備さに襲われます。


彼らにとって学びは祈りだったのかもしれない


クーデターと聞いた時、私は彼らの学ぶための熱意を思い出しました。

どうやって社会を変えていくか、変わっていく社会の中で自己選択をどう広げていくかをみんなが必死に模索していたのかもしれません。

私はミャンマーで過ごす時間の多くで、日本はそんなに恵まれた環境なのに、なぜ君はもっともっと学ばないんだと問われているような気がしていました。なぜチャンスを掴まないんだ。なぜもっと社会に目を向けないんだ。

僕たちにとって留学は特別なもの。都市に出るのも特別なもの。その中で生き抜いて少ないチャンスを手にするためには、必死で勉強するしかない。必死で競争して、勝ち抜いていくしかない。

ミャンマーから出たことのない学生たちは、どういう気持ちで私達日本人学生を見ていたのでしょうか。

だからこそ軍事クーデターと聞いた時、私は何も発信することができませんでした。何もできないと言い訳している、向き合わない自分を認めるのが恐かったのです。また恵まれた環境で無責任に日々を過ごしている。そんな自分が中途半端なことを言ってはいけない気もしました。

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彼らにとっては、学びは祈りだったのかもしれないと思います。社会から彼らを救い、彼らの社会を救うのは学ぶことだけだと信じられる希望だったのかもしれません。



何かができると思うには私はあまりにも無知すぎます。

でも、自分とは関係のないこととして無視してはいけないのです。

日本からできることは少ないかもしれないけれど、今私はミャンマーの未来について思いを巡らす一人にはなれるかもしれません。それとも、自分の社会の歪みに向き合うことのほうが、もっと彼らに誠実でいられることかもしれません。

1年前に社会変革の熱気を感じた国。

5年以内にまた訪れて変化を体感したいと思っていた場所。

彼らがミャンマーの未来に希望を持てる日々であることを願います。



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ミャンマースタディーツアーで訪れた場所
・西ヤンゴン大学(East Yangon Uni)
・JICA(CREATEプロジェクト含む)
・日本留学センター
・KOICA
・UNHCR
・SAG(私立キリスト教学校(16〜20歳)・週末学校(6〜13歳))
・僧院学校
・Campion(私立英語学校)
・MLI(私立塾(大学院生))

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