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繊細さと、鈍感さと。

近頃HSPや繊細さんという言葉をネット上でも本屋さんでも見かけます。

明確な定義がない自己診断らしく、人より繊細で感じすぎてしまう人ということのよう、とだけは知ってます。

そして、最近はとてもよく聞く言葉になってきているということも。



私は、自分のことをかなり気にしいだと思う一方で、図太くて簡単には壊れない強さがあることを知っています。そしてそんな自分が結構好きです。

表現や、感覚や、人に対して気にしすぎてしまう部分と、それでも自分は自分で立って生きていくしかないというところ。傷つけるくらいなら、傷つけられた方がいいと思っています。だからきっと最近よく聞くカテゴライズには当てはまらないのかな。特別確かめようとも思っていません。そういう考え方が共感され、注目されてきているんだなと思うくらいの気持ちで過ごしていました。



ところが最近、強いことが悪いことかのような、そんな言葉に触れることがありました。「繊細さ」を主張する人から投げられた、強い拒絶と攻撃をされるような言葉でした。

私自身は弱さを出さずに、出せずに過ごしていることで「強いひとだ」と判断されることはまだいいです。自分も、弱い人だと思われたくなくて強がっているところもあるから。

でも「私は繊細です」と言っていない人が、そう言っている人の痛みを理解できないと決めつけられているようで悲しくなりました。

私は、人と過ごしている時の苦しみを理解できないのでしょうか。気を遣いすぎてしまって疲れるそれを、知らないのでしょうか。独りぼっちであるという孤独を感じたことがないのでしょうか。自分の傷みを誰にもわかってもらえない悔しさと悲しみを感じた夜がないのでしょうか。強くいようとして本当の自分を理解されていないような脆さを持っていないと思われているのでしょうか。

世の中は、強いか弱いかで2つに分けることなどできないと思うんです。

最近の世の中は、わかりやすいラベルを貼ろうとしすぎて、冷たくなっているような感じがします。



人は、いつまで経っても誰かのことを理解するのがとても苦手だと思います。

いつもいつも言い聞かせないと、簡単に自分が相手を理解していると勘違いしてしまいそうになるんです。相手がほしい言葉をあげられた時、相手が弱いところをこっそり見せてくれたと思えた時、ふと話した感覚を共有していると知った時、自分は相手のことを知ることができている、そんな風に思ってしまうんです。

でも、そんなことはきっとない。

私に弱さを見せてくれた人は、もっと見えない感情を抱えているのかもしれません。私にだけ見せてくれたような一面があるように、別の誰かにだけ見せている面もあるはずなんです。誰にも見せないその人の姿だってあっておかしくありません。

自分のこともちゃんと理解しきれないのに、誰かを分かった気になることを怖いことだと思います。そういう風に誰かを自分から見えている枠に収めようとしてしまう自分勝手さを忘れてしまわないように、言い聞かせないといけないと思います。



自分をわかってほしいと思うあまり、相手を都合よく解釈してしまうこと。相手が自分に見せている姿から、自分の理解できる枠に収めて分かったつもりになってしまうこと。相手に勝手に期待して、それで失望したりする、そんな自分のわがままに向き合う必要があるんだと思いました。

世界は2つにわかれているんじゃなくて、それぞれの人がいくつもの要素を抱えて生きています。そのグラデーションが、環境や相手によって濃かったり薄かったりと現れているんだと思います。だからこそ、自分にも相手にも優しさを持てる、そんな自分でいたいんです。


私をわかって。

そんな風に文章を書いてしまうことも多いけれど

どうか自分とは違う誰かを尊重し続けられる自分でありますように。


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