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掌篇小説『Z夫人の日記より』<106>

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3月某日 彩

夜、撮影スタジオにひとり、残っていたモデル。

何もかも片付けられたなかに、白い浴槽がぽつりとある。スタジオに於いてはちいさいが、女性モデルとは尺があわず、まるで白い鯨みたいだ。
そこへたっぷり張られた水に、モデルはインクらしいものを垂らす。赤、黄、緑、藍……いくつもの小瓶をあけ、浴槽のふちにもたれ、手首を踊らせて。退屈しのぎの遊びみたいに。首をかしげ、どんぐり眼をころがす。インクはそれぞれ瞬時には広がらず、決してまざらずに、ほそく或いはふとく、楕円の水面をスローにまわりながら、色のリボンをからめあってゆく。水の光も相まって、サイケな、狂気にちかい思いの波を、画に描いたかのようでもある。
いつの間にか裸になっていたモデルは、天井から下がったブランコらしきものに掴まったかと思うと、飛沫もなくスッと、水におちてゆき、顔まで沈みこむ。
すぐにあがってきて、時を巻き戻す風にブランコへ昇った彼女の躯は、髪の毛と眼玉をのぞく総てが、狂おしいマーブルに染められていた。しなやかに反らした腰、小ぶりな胸、たわわな臀部、長すぎてもてあました脚、ひろいおでこ、ものうげなアイホール、何もない空間でもくちづけるような厚い唇に、彼女のものであってそうでない赤、黄、緑、藍……が、ゆきさきを見うしなったみたいに哀しく、或いはすべて判っていて嘲笑いながら、無限にめぐっている。女であることを、あまい毒のリボンを幾重にも踊らせ挑発的に、指紋にも似た柔和な複雑な刻印で、あらわしながら。

色はそのまますぐ、肌に定着したようだ。そのまま服を着る。コートの襟をたて、サングラスをかけてしまえば、夜道ではほとんど気づかれないだろう。
ヒールを鳴らし、車の鍵を揺らす彼女に、どこへゆくの? と聞くと、
この姿に、恋したひとのところ、と答えた。

©️2022TSURUOMUKAWA

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朗読+演奏『Z夫人の日記より・3月某日 彩』黝苑(武川蔓緒+上村美智子)


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