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短篇小説『3月85日』

 車のない車道はまっすぐ、傾斜5度ほどのゆるやかなくだり坂で、プラタナスのアーチを飾りながら、僕の悪い眼では永久に続いていると感じる。下へゆくのに、逆に天へのぼるように彼方あちらのほうが光が満ちているように思う。

 車がたえず往来しているときは、気づきもしなかった。
 空なんか視るよりも不思議とやすらぐので、ときどき来ては交差点のど真ん中にたち、みおろす。

……だが、いま。
 その、僕のアパートから凡そ8分の近所に存在する私的な永遠の象徴に、まさかの邪魔、異物が混入する。二車線の真ん中の白線を、のぼってくる影。午後5時前のままのあわく紫がかった暮照を、右半身からゆっくり纏う。

 そいつは皺だらけのシャツと、膝や脛をじぶんで裂いたっぽい弛いジーパンと、黒サンダルをはき。Lサイズのキャベツをまるごとじかに手にもち、葉をちぎっては口にいれ。

「ひとがいた」

 齧りながら、僕を指さす。こっちの台詞だ。34日ぶりに視た頭頂から爪先までそろう人間。それもいちおう、知り合い。太陽の時刻に会っていないので記憶との照合にカール・ルイスが駆け抜ける秒を要したが。僕が都心の闇にいちど、からだを買った男。自称のよわいは下手すれば息子ほど下。両眼がほそく鋭くやや離れ気味、顔はふくよかな卵型で鷹揚そうだが、人を小馬鹿にしてるようにも視える。横顔になると顎がないワリにおおきな鼻が突きでて、動物味を帯びる。距離は知れぬがラフな恰好で歩ける近さに住んでいたとは。

「………寝る?
 通常料金もらうけど」
 カール・ルイスが駆け抜ける秒考えたけど他に云うこと思いつかなかったよ、というふうに。こんなシチュエーションでも。
 34日も人の消えた街で、金儲けなぞする意味は掴めないが、僕はどんな言葉を返したやら、それとも無言で腕を捕まえたか、男をアパートに、キャベツごと連れこみ。

 源氏名も忘れたし呼ぶ意味もないし仮名キャベツでよい。さっきうっとり眺めていた美しいくだり坂の車道を呆気なく忘れ僕は、キャベツの麻も綿もポリエステルも剥ぎおとした素肌の稜線に地平線に、永遠を錯覚する。
 絡むほどに潤み熱されるたがいの軀も唇も風味と匂いがひとつになってチーズみたいに融けてはかたちを戻しまた融けてはかたちを戻し。やがて視覚や平衡感覚も狂乱しどちらの何か不明なアウトラインが降る雫の軌道が音が残像が、あわせ鏡のように終らない。うすれゆく重力、調子づく引力。脳って、アキレス腱って、どこにあるんだっけ。
 たぶん性的なだけではない愉楽が僕の世界をおおい尽くし、歳の概念など露ほどの意味も消えうせ、安堵さえ覚える。
『アダムの次の人間がまた男であったとしても、こうなったに決ってる』
 などと頓狂なことをめぐらせ。至極単純に、久しぶりに抱く男、というだけの話か。
 キャベツもキャベツでまた、騒々しいバーで「買ってみる?」と囁いてきた最初の夜よりいっそう、其処そこでも彼処かしこでも触れれば蓋をひらいたグランドピアノぐらい反応がよく。狭いベッドがアパートが揺れるかと思うほど脈動しているが。『所詮はプロ、上等な芝居かもしれない』と云いきかせ、ほかの何を乱そうと心の妙なよろめきだけは留め。それでも果して何時間絡んだやら、オメガの腕時計を視たってそもそもいつ会ったか忘れたし、空は紫の儘、オーガンジーのうす雲さえ律儀にかたちを留めているので知らないが。ジェリンド・ボルディンよろしくボトルの水をのみ頭にも少しかけひやし。タケオキクチのトランクスもはかずぶらんぶらんした儘コーチの革財布を久しぶりにとりだし、金を渡す。
「まいど」
 悩ましく荒らした前髪の下、優しくも冷酷にも映る笑み。けして二枚目でないのに魅力が薫り小憎らしく。出くわすのがアダムであれイヴであれ、キャベツのちいさな葉より軽軽ころがしそうだ。
 スキ焼きもどきの煮込みが台所の鍋にたっぷりあったけど、一緒に食べようとは思わず、帰らせた。

 3月の始めから、人がいなくなった。時がうごかなくなった。

 僕はその日高熱をだして会社を早退し家で寝ていた。いくら眠っても、電気を点けずともよいぐらい紫とピンクのグラデーションに1Kの部屋が包まれていて。テレビを点けたら、予報士のいない天気図や、ドラマ俳優のいない海沿いの崖っぷちや、子供も着ぐるみキャラクターもいない安いジャングルのセットや、居酒屋の客のいないビールのCMなんかが映るだけ(ついでにエロビデオを再生しても、ベッドや倉庫や野道やテトラポッドの陰に誰の裸身もあらわれず)。

 薬局とスーパーに出かけたが客も店員もいない。風邪薬と歯磨き粉と目薬と、ワインと惣菜とピーナッツチョコを盗む。
 帰宅しても、点けっぱなしのテレビはやはり天気図の儘、左上部に『4:45』と打った儘。

 電車もタクシーもないし、電話しても出ないかかってもこない会社へ、3月からかぞえて14日、行ってみる。車がないから自転車で。片道少少迷いながらの、ジェリンド・ボルディンが駆け抜ける時間の道中でさえ、誰の姿も視ず。
 オフィスで、とうぜん独り、溜った大量の仕事に手をつけ……たって、しょっちゅう近くの公園のベンチに座りスナック菓子食べる応接間のソファーでサワーを飲んで眠りこむトイレでオナニーする等等、サボりの方が長いぐらいのスローペースでやったって、数日滞在すれば終ってしまう。学校の春休みの宿題の方がよほどキツかった。
 他に何をするか。いちばん嫌いな同期だが上司のデスクの、字がきたなく大事なのか些末なのか不明のメモや欠かさず読む週刊誌を裂きコーヒーを死ぬほど飲むマグカップを割り、プッシュホンや回転椅子、ついでに背後にあるコピー機とかも限界まで分解してみたり。ゴミ袋に諸々ぜんぶを詰め、近くの石造りの橋まではこび、数字のボタンやら配線の露出した受話器やら集積回路やら椅子の滑車やらクッションやら破れたモデル不在のグラビアやら陶器のかけらやらコピー用紙やらパネルやら感光ドラムやらを、ひとつずつ紫の河に投げ棄てる。何故だかこのとき、石の欄干より河面を視つめながら、泣いた。時がとまって以降、はじめて。淋しいのか口惜しいのかそれとも面白いのかくだらないのか、兎に角泣いた。雨がなくとも流れつづける河は、泪で補充されるのか、などと愚考するぐらいに。

 僕のほかに生きるものを視た最初はキャベツじゃなく、市内バスだった。いつも電車しか利用しないので存在すら認識してなかったが。バスは無人で勝手に、しかし1分も狂わず時刻表どおりに経路を往復している様子。郊外ゆえか1台だけらしいそれに乗りたくなれば乗る。信号機はいちおう光っているが意味をなさないから、律儀に時刻にあうようゆっくり走る。じぶんで行った方が速い。じいちゃんの自転車の後ろに乗る孫みたいな心地……そんな経験はないが。
 適当に降りて。スナックの日本酒をあけて呑んだりサーティーワンを店員用の大型スプーンで掬って食べたり客に出す直前の湯気をたてた饂飩を啜ったり、市場の揚げたてコロッケや胡瓜や林檎を齧ったりする。飲食物もすべて時をとめた状態で、3月も32日を過ぎても瑞瑞しく、温度も変えない。

「この辺のもの食べ尽くしたらどうしよう」
 ホテルロビーで鍵を勝手に拝借しいちばん広い部屋を占拠し、「女とも寝るよ」「でも男の方がラク」「貴男とするのがいちばんスキ」とか耳許で囁かれながら、『コイツのスキはスキ焼きのスキの語源より諸説あるな』と内心呟きつつ、受動も能動も変らず完璧なキャベツとヒトとしての原型をかなぐり棄てどろどろになり、ともにキングベッドから流れおちたあと、まだ呼吸のおぼつかない様子で、まるで色っぽいことみたいに、「食べ尽くしたら」なんて云う。
「ティラミスは絶対食べきっちゃったと思うんだ。知ってるティラミス?」
「……よそ行けばあるだろ」
 やっとのことで声を吐く。枕詞の『うるせえな』を省き。
「一緒にいく?」
 からかうように覗きこんでくる、その魅力を自覚し尽くした眼が鬱陶しく、僕は溜り固まった眼脂めやにをむず痒く感じながら寝惚けたフリ。アダム1号とアダム2号はイヴと一緒になる通常のケースとは当り前だが違い、じぶん達でコドモという複製が造れないどころか、愉しい美味しいことが味わえれば御の字とばかりに楊枝くわえ口笛ふいて離れるか、離れずいたら罵りあい、殺しあい、ほろびるだけ。仮にタマネギ部隊よろしく3号4号5号がひょっこり現れたとしても乱暴できる頭と腕のバリエーションが殖えるだけで、結果はきっとおなじ。《原罪をともに背負いふたり肩寄せ生きる》なんて殊勝なことは絶対にしない。できやしない。すくなくとも僕のる領域では。すくなくとも『アダム≒僕』であるとすれば。
 僅かに後ろめたさを感じるように、それともキャベツとおなじスキの芝居でもするみたいに、うす眼の儘、アラベスク絨毯に横たわるキャベツのヒトに還りつつある硬く軟らかくしめった軀をなぞり。
「ねぇ沈丁花咲いてるとこ知らない? あちこち歩いてるのに匂いすら感じないんだ」
 とかまだ、やっぱりまるで卑猥なことみたいに云う。僕と似た匂いと似ない匂いのキスを、雛に餌を与えるように何度もしながら。おおきな鼻をくちばしみたいに、頬にやさしくあてながら。
 餌を貰いながら、『よかったけど、こないだほどはよくなかったな』と思いながら、腕時計をチラリと視る。ダリみたいに、すこし歪んでる。

 腕時計でかぞえて、3月も70日を過ぎたか。電池がきれたら、日数もわからなくなるだろう。
 破り棄てたい絵画ほど視あきた紫の空のもと、市バスに乗り。今日はずっと避けていた反対方向へ。例の、私的に永遠を象徴する傾斜5度の車道をくだる。光が満ちるでも異世界へ翔ぶでもなく、おおきなファミリーレストランにつきあたり右に折れる。永遠は3分で終った。
 さて本屋にでも行きTOEICと行政書士のテキストでも盗むか、それともスポーツジムでかるく筋トレして泳ぐか……
 何のために?
 暮しを軀を弛ませきらぬのは別にキャベツのためじゃない。会社から戻りしばらくして徐々に気を遣うようになったが、会社のため、ともちょっと違う。何もなくとも、僕はほぼ毎日髭を剃り風呂に入って、1日に1食は栄養をそれなりに考慮した料理をこしらえトイレ掃除もして。家を出るのならブランドひとつぐらい、ケンゾーなりヨウジなり身につけ。
 そのうち街に人は戻ると思ってる、否、戻るとどこかでアダム1号のアンテナが感知しているからだ。ほかに根拠はないが。しかしそうでなければ、戻らないのなら、僕は毎日酒とチョコの類だけ摂り、ガラスを視かけては叩き割り建物の中も荒らし、忌々しいあのオフィスにはチンケな悪戯などせず手っ取りばやく火をつけ……キャベツだってわざわざ部屋になど連れこまずあの永遠めかした車道のうえでシャツをジーパンを裂き貪っているか、もし部屋に入れたなら首と手脚をベッドに縛りつけ飼育するか、それさえ放置し街を出ていたと思う。
 キャベツもきっと、聞いちゃいないが僕よりもっと余裕綽々しゃくしゃくで『戻る』と思い過しているだろう。だから僕と寝て金を稼ぐんだ。

 バスのいちばん後ろに座っていたら、ほぉら、誰もいない筈の車内に、ぼんやり人のかたちがあらわれる。シャネルもどきジャケットの肥えた婦人、病気みたいに痩せほそったサラリーマン、塾へ行くのか帰るのか窓外を視つめ紫を虚ろに浴びる少女、腰をまげ少女よりちいさくなった老婆……じいちゃんののろい自転車みたいなバスには、婆ちゃんがいちばん似合う。
 運転席にもヒトのかたちがあったので視にゆけば、いるのは紺の制帽とスーツの、軀がほどよく締まった少少野暮ったい顔の30そこらの男。好みのタイプ。ハンドルを握る手袋の指にさえ色気を覚え、欲情し。僕のほんとのじいちゃんはとっくに死んでるが、こんなとこ知ったらどう思うか。はじめて寝た年上の男は細身で無愛想でじいちゃんにちょっと似てた。彼が云っていたように、「ケッコンはしておけよ」ってしずかにしかし妙に響く声で諭すだろうか。イヴと偽りでも繋がれ、という意味だろうが、僕には血の痕しか頭に浮ばない。
 霊のように朧な人人を眺めていたら、バスは市内でもっともおおきな橋へ。河のきらめきと、バスのエンジン音さえ巧みにすりぬけるせせらぎに触れれば、会社のそばの河のときとおなじに、もはや感情よりさきに条件反射で泣けてくる。大女優レベルのタイミングで両頬を泪がつたう。涙腺が河と呼応しあうみたいに。永遠のセックスみたいに。
 泣くのは、哀しくて淋しくてもどかしくて遣る瀬無いから、というのはそうだと思う。それは人がいないこと、会えないことに対して、だけでなく、人がそのうち戻るであろう、会うだろうことも、淋しくて哀しくてもどかしくて遣る瀬無いのだ。
 運転手の姿はもう紫に融けているが、運賃を払いバスを降りた。

 結局は書店へもジムへもゆかず、なじみのない住宅地やゆかりのない墓地なんかをうろついた。沈丁花はほんとうに視ないし感じない……というか、あれってどんな匂いだっけ。視かけも忘れた。ちいさい花だと思うけど、白だっけ。梅やら椿やらは花札よろしく、いつまでも貼りついているのに。絶滅危惧種だっけ。
 要らぬ他種の花粉を吸ったか、くしゃみを連発。知らぬ酒屋にはいってはなを啜りつつ色んなものをあわせ呑み、その場で眠る。

「住宅展示場にきて」
 キャベツの電話番号にかけたら、逆に呼び出された。

 住宅展示場はもともと、小ぶりな遊園地のあった場所らしい。
 厭味なほどスタイリッシュに角ばって生活感のない家々が放射線状にならぶその中心に、まるで凱旋門の如く、遊園地時代のメリーゴーランドがおそらくその儘遺されている。
「展示場の部屋か、メリーゴーランドか、どっちかで遊ぼうよ」
 と。
 あの車道で再会した34日のように、キャベツの軀から永遠を錯覚することはもうできない気がした。ひとつのメディアから、永遠は3分または数時間で終るようできている。それよりもメリーゴーランドをじぶんで稼働させるほうに、食指が動き。
 キャベツもまた、ヤンキースの青いキャップ、キース・ヘリングの画がプリントされた緑のジャケット、スカルのネックレス、下は赤のフェイクレザーぽいタイトなパンツ、ナイキっぽいマルチカラーのスニーカーなんかはいて、裸になる気なんて端からなさげに視える。ニヤつく唇は変らず卑猥だが。
 係員用の電話ボックスみたいなところにはいり、ボタンをてきとうに弄っていたら、いかにも旧ぼけた感じの音楽と、反して紫の空を忘れるほどの眩い光とともに、ゴウウウウと、まわりだした。キャベツが「うおーーー」と大袈裟に、でもおそらく芝居でなく騒ぎながら、円盤に、磨きぬかれたか塗りなおされたかしたピカピカの白馬に飛び乗る。この音楽は確かアレじゃなかったか、映画の『ぼくの伯父さん』のサントラ。誰がお前のおじさんだ、と眉をしかめつつ、不揃いな上下運動をする馬から馬へ、さらには馬車の屋根へ、背中のキース・ヘリングの人物像と一緒に猿みたくアクロバティックに飛び移るキャベツ、主柱の鏡や此方のボックスのガラスにも映り3人とも4人とも5人ともなるキャベツとキース・ヘリングを視て、口角があがっていたかもしれない。思うよりスピードが速い気もしたし、スローモーションで残像が尾をひきめぐりゆくようにも視え。いずれにせよ妙に幻覚的で、其処も彼処も山岳地図なみに識っている筈のキャベツに、今にも『この人物はフィクションです』と、横から白いテロップが流れ出そうな。
 すぐ終るのかと思ったが、止る気配はなく。此方に姿を向けるたび、まわるすべてと同化し髪も顔も服もあらゆる色に発光しているキャベツが、何か叫ぶ。

「……るって、ホントは嘘なんだ」
「……もしさ、また、電話じゃなく」
「……偶然、バッタリ会ったら」
「……今までの金、ぜんぶ返したげる」
「……あんたケチだよね」
「……ホントは金持ちだろ?」

 そんなことを、たぶん。
 途中で青のキャップが、どこかに飛んだ。

 アダム1号と2号の時代が、もうじき終る。キャベツの叫びから、なんとなく感じた。もうじき、そもそも禁断の果実も蛇も神様も何ら無関係に毒をみずから生成できる罪だらけのアダムらとイヴらが、車道に公園にオフィスに居酒屋に電車にスーパーにめでたく返り咲き、溢れかえり。その点描画のほんの2点に過ぎない僕らなんて、混雑と喧騒とせわしなさにまぎれ、偶然会うこともないだろう。電話番号のメモも家に帰ったらきっと破り棄てる(金なんてくれてやる)。幸か不幸か、僕好みのアダムは星の数ほどでないけどいるから。若いキャベツにとっては、ましてほんとうにアダムイヴとわず嗜み喰うのだとすれば、尚更慌ただしいに決ってる。なりゆき次第では血の痕じゃないケッコンをしてコドモなんかも造るのか。せいぜい巧くやれ。
 戻ったら、もっと広いとこ引っ越すか。会社も辞めようか。

 エンドレスな光あふれるメリーゴーランドを、イエーとかフウーとか喚きつづけるキャベツをその儘に、僕はボックスより出て、立ち去る。今度は自覚をもって口角をあげながら。『ぼくの伯父さん』が、それに乗っかる鼻のでかい猿の歌声が、フェイドアウトしてゆく。

 来年か再来年かそのまた先、あたらしいありふれた31日間だけの3月がきて、ここでないどこかの街で沈丁花が判ったら、何を思うだろう。河を視たときのように、恥ずかしげもなく泪を零したりするか。それとも洟を啜るだけか。

「85日、歳をとったよ」
 と、いま誰かに会ったらまず云うだろう。





©2024TSURUOMUKAWA






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