27.「習慣化」で「多動力」という個性を殺すな
「ルーティン」「習慣化」
偉大な言葉だと思う。
ここ1ヶ月ぐらい挑戦し、実になったこともいくつかある。
note更新もその1つだ。
ただ、やっぱり偉大なだけにコストもかかることだし、フェイズや性格によってはあまり「習慣化」という言葉にこだわらないほうが良い気がしてきました。
きっかけはnoteの毎日更新ストップ
先週朝活コミュニティでの活動が終わった。
朝起きる時間はあまり変わらないのだが、連休ということや仕事の時間変化に釣られるようにnote更新が捗らなくなった。
2,3日はタイトル挿絵を減らしてでも、23:59にでも投稿した。
ただ、心がワクワクしなくなったのだ。
結局心がワクワクするかどうか
ネタが無くなった、というよりプツンと糸が切れた状態だった。
堀江貴文の「多動力」でいう、「飽き」がきた状態だった。
note更新を続けていたときは、ただワクワクしていたのだ。
自分の発信がどれだけ見られるか、どうやったら良い発信ができるか、そんなことをいろいろ考え、思考を開示していた。
でも、「連続更新」にこだわった途端面白くなくなった。
無理に捻り出すビジネスチックに書いた発信が自分で詰まらなかった。
僕がnoteでやりたかったこと
きっと僕がnoteでやりたかったことは、うんうん捻り出すことではなく、今走らせているようにただただつらつらと思考を綴り、「考えた」という記録を残すことだったのだろう。
もちろんそれが他の人に届けば良いと思ったのは素直な気持ちだし、読んで欲しい気持ちがある。
サムネイル作成や文章校正を行うのは今でもやってよかったと思っている。
それを行う価値すらないと感じた文章を綴ってしまったことが問題だったんだろう。
習慣化にこだわりすぎて多動力を殺さない
「あなたは多方面に愛が溢れている」と出会ったばかりの人に言われ。
「いろんなことやるほうが向いている」と高校の友人に言われ。
おばんざいが大好きな僕はきっと種類をこなすほうが得意なんだろう。
それをやれルーティンだの習慣に殺されてはいけない。
きっと仕事とか環境で固定観念が作られていた。
少なくとも今の僕は違う。
僕にとって、ルーティンとかは集中法や目的達成の一環として用いるのは良いけれど、きっとそれが正ではない。
多動力もそう。要は使い分けだと思う。
「朝6時に起きて何かをやる」というルーティンは良いけど、その「何かをやる」が飽きないようにしなきゃいけない。
note更新も一緒。
あくまでも更新は手段。やりたいのは自分と対話することだと思う。
その中でnote更新を滞らせる必要があればそっちに集中するべきなんだろう。
ということで、久々に筆が走って楽しいnoteでした。
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