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推しは既に主役であった

 まだ無名の推しを推す際、いつか主役になって欲しいと祈りを込めたことはないだろうか。私にはある。しかし、これはきっと間違いである。少なくとも、推しは既に主役であった。

 では、なぜ推しに主役の座に着くことを期待したのだろうか。半分は単純に知名度や名声の問題であろう。広く周知されて活躍して欲しいという意味で、その業界の主役の座へと昇りつめることへの応援や期待として。もう半分は、自分の主役になって欲しかったのではないだろうか。もっと言えば、私の場合に限ってかもしれないが、自分の人生の主役を変わりにやってもらいたかったのではないかと考えた。

 少し冷静になれば、主役になって欲しいと願うことが、そもそも今は主役に値しないという暗黙のわき役認定が前提にあって、それだけで少なくとも失礼ではある。主役という言葉は一般的に使われる場面が非常に多い言葉でこそあるが、その言葉が飛び交う場合のほとんどに根拠と説明が不足している。

 個人的に己の生き様や人生観について、主役は自分自身なのだぞ!と、手垢にまみれた中古の格言を頂戴する機会が何度もあったが、この人にとって今の私はわき役に見えているのだなとしか思わなかったし、いや何の主役だよと思った。そこが何より重要ではないか。主役論を語られる際、私の経験した限りではその全てが、いったい何の主役であるかの説明が恣意的に省かれたり、失念したりでどれも欠落していた。

 仮に、自分の人生における話だったとした場合、自分の人生の主役は自分であると言われれば、たしかに自分以外で自分の生きた世界を見る者はいないのだからと納得できるような気もする。しかし、子供を授かれば主役の座が子供に移るという人も現れ、そちらもそれなりには納得できてしまう。いや、どっちだよと。主役論は結局のところ、説得力こそあっても、根拠に基づく結論は出ていないのだろう。

 それもそうである。主役である場合と、主役でない場合が同時に存在する。絶えず自分の人生の主役は自分であったとて、結婚式に参列などしたら式での主役は新郎新婦であるから、自分が主役!とその場で主役の座の奪還へと繰り出せば、つまみ出されるだけである。自分が人生の主役であることは別に、誰かが主役を張る場面に居合わせる場合があるわけで、自分が主役ではないと知ることがある。もちろん、どうあがいても主役と呼ぶには情けない自分自身と直面だってする。

 中古の格言を幾度となく頂戴する程度に、私の人生は薄暗く主役や花形と呼べる在り様からは程遠い。そして、それを自分はわき役の側であるとなんとなく理解している。だから、自分の人生に花を添えてくれたり、色味の消えた風景に朱をさしたりしてくれる存在を求めていたのだろう。私は手に余る人生という舞台を前に、主役に満たない自分自身が成すガタガタの小生劇場に疲れや呆れがまわっていたのは事実である。既にうんざりはしていて、こんな席で申し訳がつかないが代わってくれるなら誰かに譲りたいのは山々である。

 子供を早くに授かりたいと願う知人の心理を不思議に思ったことがあるが、彼も人生の主役の座を譲りたい、あるいは手放したかったのかもしれない。少なくとも私は手放したい。自分の人生や自分自身に対する絶望に片足を突っ込んでいて、その薄暗い人生の主役の座を誰かに代わってもらいたいと願っていた。それが理由であるとすれば、推しに主役になって欲しいと思い、後から自分が思ったことに感じた違和感について納得できるような気がした。

 主役を張れない薄暗い人生を歩む私はその逃避がてら、自分の後ろ暗さと推しの輝かしさを対比して、自分が薄暗い分の代わりにとでも言わんばかりに、推しにより輝かしい主役になってもらいたいと身の毛もよだつような願いを抱いてこそみたが、そんなこととは関係なしに画面に映る推しもまた絶えず推し自身の主役であり、既に推しは主役であった。

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