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推しと言い訳

 人生が言い訳に塗れたのはいつからだったか。私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、同時に何をするにも言い訳を探す精神的な浮浪者でもある。信じられないかもしれないが私のような人間にとって言い訳は生きる上で必要不可欠である。そうでない者にとっては到底理解しえないだろうが、同じ類いの人種なら当然大きく頷いてくれているに違いないと思えるほど、そうある者にとっては至極当たり前のことなのだ。

 Vtuberに関しても私は見始めるのにもハマるのにも言い訳が必要であった。見なくなったり距離を置くのにもその時はそれ相応の言い訳を要することだろう。きっとこれは平たく言うところの理由にあたるのだが、平たく言うには均せない後ろ暗さや陰湿さを目に余るほど含むように感じるので私は言い訳と言うことにしている。何もこれだけに限ったことではなく、最近頑張っていると言い聞かせて自分が納得できないことには食べたいものを我慢するぐらいには、何をするにも代償に後ろめたい理由が要る。

 私の場合に限ってその理由は単純に精神性が成熟しきっていないからだ。自信とか自己肯定感とかいう奴らをどこかで落っことしたまま大人になってしまった。自分自身には取り柄がなかったし取り柄を取得する努力も怠った結果、真面目を装うしかなくなって、そうやって周囲の期待に応えようとする姿勢を見せることで目先の居場所を幼少より安価に入手してきたツケが回ってきたのだと思う。

 そうして、自分で何も決められないまま歳を食った私は、自分の責任ではなく理由を探してその理由に決めてもらうという責任転嫁型の言い訳オジサンと化した。そんな生き方を長くやっていると、人より重箱の隅をつつくのが陰湿にも上達してきたのを感じる。意図せずに後ろめたい理由を探すのが上手いのだ。

 推しについても、忙しくなったからと言い訳を並べた上で最近は追えなくなっていることを何とか正当化しようとしている。実際問題、人生は辛く苦しく薄暗いわけであるから推しは必要である。それとは別に推しを摂取できない自分自身という認知的な不協和を解消する必要が生じるからだ。

 ふと、個人勢の有名Vtuberが「リスナーがVを推さなくなった理由」についてアンケートを取って記事にまとめたものを目にした。そこに寄せられた意見を見ると、私もいつかこうなると確信し寒気がした。推したいけど推せない理由探しの旅路に認知的不協和解消のため意図せずその責任を推し側に転嫁するような意見を見つけたからだ。自分が推しかその矛先の誤差だけで私も本質は同じことをやっているわけだ。

 推す理由は数百歩ほど譲ってもらえるなら言い訳でも少なくとも迷惑をかけることはない。しかし、嫌いになる理由や推さなくなる理由の方の言い訳がこじれると迷惑お気持ちオジサンと化すだけである。私のような後ろ暗い人間は悲しいことに重箱の隅をつつくのが上手い。いい歳なのにとか、こんなこともできないのかと、今後も絶えず自分の心の重箱を突きまくっていくことだろう。これだけでも既に嫌な奴であるというのに、これが自分の心を突き破って他所や推しに波及したら、とても嫌な奴に容易く成り上がれる。それは避けたい。

 好きで見ていることも理由や言い訳を抜きで素直に公言できない私は、飽きたとき素直に飽きたと後を濁さず飛び立つオタクになれるだろうか。今のところ到底なれそうもないではないか。

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