創作「湖畔にて」 兼藤伊太郎

湖の畔には小さな小屋がたっている。誰が建てたのか誰も知らないし、いつからたっているのかいつまでたってもわからなくていつしか忘れられ、どこにあるのかどこまでもわからない。しかし、それは確かに建っていて、そこには老人と大きな犬が住んでいる。
凪いだ日には、老人は湖に小舟を出す。犬と一緒に。犬は小舟の中で大人しくしている。湖面にはさざ波一つなく、舳先が作った波も、小舟を止めるとじきになくなる。老人はそっと息を潜め、空を見上げる。青い空は、鏡のような湖面に反射して、老人は四方八方、上も下も青空に包まれているような気分になる。犬はたいていまどろんでいて、どんな気分なのかはわからない。
風の強い日には、老人は小舟を出さない。小屋から波立つ湖面を眺め、一日を過ごす。犬も老人を真似るように湖面を見詰めている。犬は嵐の匂いを嗅ぐ。老人がそれを嗅いでいるかはわからない。波立つ湖面は何も写さない。波が波としていくつも連なり波となる。
雨の日には、老人は犬を連れて森に入る。雨合羽を着込み、杖を持って。木々の幹は濡れそぼってしっとりと黒々となり、雨粒が葉を叩く音以外の物音はせず、いつしかそれに慣れ、すると意識にのぼらなくなり、完璧な静寂になる。老人は犬の足音を聞き、犬は老人の足音を聞く。
森を少し行ったところには小道がある。雨の日、必ずそこを自転車に乗った少女が通る。雨の日以外にも少女はそこを通っているのかもしれないが、老人が森に入るのは雨の日だけなので、それ以外の日に少女が小道を通っているのかどうかはわからない。少女はそれを知っているが、老人は少女が知っていることを知る術を持たない。少女は老人が雨の日にはこの小道にやって来るのを知っているが、雨の日以外に何をしているのかは知らない。少女は老人が知っていることを知る術を持たないからだ。
少女はいつもずぶ濡れで自転車に乗っている。濡れた髪が額に貼り付いている。雨合羽を着ていないため、服もずぶ濡れ、搾ったら大きな水溜まりができそうだ。
少女はずぶ濡れになりながら、一心不乱にペダルを漕いでいる。老人と犬の脇を通り抜ける時、少女は一瞬老人と犬を見やる。老人と犬も一瞬だけ少女に視線をとめる。両者の眼と眼が一瞬だけ合う。言葉は決して交わさない。まるで言葉を交わさない約束が交わされているかのように。
夜には、老人は小屋にいる。夜空には満天の星だが、老人は外へ出ない。犬も小屋にいる。老人は犬の眼を覗き、犬は老人の匂いを嗅ぐ。老人が灯りを消し、床に就くと、犬はその横に寝そべり、すぐに寝息を立て始める。老人もじきにいびきをかきはじめる。
老人の見る夢を誰も知らない。
犬の見る夢も誰も知らない。

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