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恋とピアノと私 #8

#7から続く)


長く、細く、息を吐き出す。

口笛を吹くように、口を軽くすぼませて。

といっても、自分では口笛を吹けない。練習したことはあったけれど、まったく音が鳴らなくて諦めたのだ。

上手に口笛を吹くクラスメートを思い出す。授業中に吹いては先生を怒らせる。いくら怒鳴られてもめげない。みんなにとっては、ちょっと威張りがちな恐い先生にたてつくお茶目な人気者といった感じだけれど、自分は口笛の音色のほうに、少し憧れを抱いた。

どうしてあんな澄んだ音が鳴らせるのだろう、と。

口笛の音を思い浮かべながら、深く息を吐く。吐き切る。

きれいな音は鳴らなくても、上下の唇をかすめた息は、冷たく乾いた音楽室の空気を確かに震わせ、自分の存在をこの部屋に知らしめた。

放課後の音楽室。ここにいる自分。少し肌寒い中でピアノを弾こうとしている。目の前の鍵盤をまさに叩こうとしている。

いま、この場においては、それだけが自分の存在理由だ。

いい音を鳴らしたい。かっこよく弾きたい。

そんな欲求が、胸の内にむくむくわいて、自分は左手を鍵盤に軽く載せた。


ふいに、外から聞こえていたすべての音が途切れた。

風の音も、鳥の声も、運動部員の声も、あるいは車のエンジン音も。

世界に休符が打たれる。そんなふうにイメージされた。

耳の奥がツンとして何も聞こえなくなり、ただ自分が息をする音だけが、頭の中に反響した。まばたきの音さえ聞こえた気がした。

静寂を逃すな。「何を弾こう」なんて迷っている暇はない。

唇を引き結び、覚悟する。

素早く、短く息を吸い込み、部屋に、いや、世界に音を放つ。

Gis(※)の音だけが、世界を満たす。



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左手を勢いよく振り下ろすと同時に、右足でダンパーペダルを踏み込む。

グランドピアノが激しくうなりを上げて目覚める。持てる巨体の全てを震わせて、こちらの呼びかけに応えてくる。

ダンパーが一斉に跳ね上がり、ハンマーがオクターブのGisの弦を強く叩いた。無数の弦が互いに共鳴し、振動を始める。ピアノの黒塗りの箱の中を、音が激しく行き交って複雑な響きを生んだ。

静けさに慣れ切っていた両の鼓膜は、突然の強い音の波に驚いたものの、すぐに調子を合わせてくれる。いいよ、そのままいこう、と。

冒頭のスフォルツァンド。全般に明るく華やかな音を好んだピアノの先生は、打ち上げ花火のように、きらめき、外に向かって爆発するような響きを要求した。

自分はおとなしくそれに応じたけれど、内心では「もっと暗い響きでもいいのでは?」と思っていた。先生に、反発心を抱く機会が増え始めていた。

自分は試した。

強い、しかし、暗い音を。

音は打った瞬間からしだいに減衰し、かすかに揺らいで淡い響きを残した。

うまくいっただろうか? 暗い音を鳴らせただろうか?

顔を上げる。

ピアノの横に立つ、もう一人の自分をイメージして自問する。

もちろん答えは返らない。

返らないけれど、それ以上反省している時間はなかった。曲は始まっているのだ。すぐに左手のアルペジオを走らせる。

悪くなかった。指はよく動いている。デクレシェンドをかけ、そっと、さりげなく右手の音を絡ませる。16分音符がぽろぽろとこぼれ落ち、床で弾んでは音楽室のあちこちで躍り始める。

右手の4連符、左手の3連符。

バラバラな音の配列は、すぐにショパンになる。

せき止められた水が流れるように、曲は渦をまいて自分を包み込む。


楽しい。


楽しい……!



「そろそろやってみようか、幻想(※)」

そう言われて見せられた楽譜は、黒くて目がちかちかした。

アレグロ。4連符と3連符の混合。無数の臨時記号……

怖気づいたのが分かったのか、先生はふふと笑ってから、

「そんなに難しくないから」と言った。

生徒のレベルを見極めるのは、案外と容易いことなのかもしれない。

譜読みは、先生の言う通り、すぐに終わった。簡単とは言わないまでも、楽譜が与える強烈なプレッシャーに比較すれば、楽な部類に違いなかった。

巧みに書かれた楽曲の譜面には、小さなピアノの神様……神様はいいすぎかもしれない。妖精みたいな何かが潜んでいて、迷えるピアニストの10本の指を「次はこっちこっち」と導いてくれるように思う。

そうでなければ、ミリ単位、センチ単位で高速に指を走らせる、神業のような真似を、そう簡単に、できるわけない。



指が温まり、心がたぎる。

テンポを加速させる。どんどん速くする。

自分の技術の限界を超え、ぶれ始める。

ピアノ教室でやったら怒られるような(温厚な先生は決して怒鳴ったりはしないけれど、静かに、こんこんと説教をするだろう。それは怒鳴られるよりもよほどこたえるのだ)めちゃくちゃな弾き方をして、急坂をノーブレーキの自転車で駆け降りるように、第一主題の終盤を一気に弾き切る。

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壮絶な場面は終わりを迎え、16分音符の連打が途切れる。曲は打って変わって、静かな第二主題に入る。

美しいメロディーばかりのショパンの楽曲にあっても、一、二に入る、有名で、素直で、清らかな旋律が奏される。

煮えたぎった心を冷ましていく。


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cantabile(カンタービレ)――

「歌って」

自分はその意味がずっと分からなかった。分からなくて、ただ思うがままテンポを揺らしたら怒られた。納得がいかない。

ピアノでどうやって「歌う」というのか。そんなの不可能だと思っていた。

今は、そんなこと言ってられない。

できないとか、分からないとか、そんな後ろ向きなことはなしだ。

歌う。

ゆったりとしたショパンの名旋律を奏でながら、自分は一音一音、フレーズごとに、迷いながらも「歌う」の意味を必死に考え、気持ちを寄せた。

固く、それとも柔らかく。

強く、それとも弱く。

速く、それとも遅く。

それとも――


それとも?


言葉にできない、雲のようなそれをつかむ。

つかまなければ、自分たちは高みに到達できない。



それだけ集中していたのもあるし、彼女が練習の約束の時間よりも早く来ると予想していなかったのもある。

音楽室の入り口に立ち、固い表情でこちらの演奏に見入る彼女に、自分は気付かぬまま、ただ夢中で弾き続けた。



(続く)



※Gis:ドイツ音名。ギス。G(ゲー)の半音上。いわゆる「ソのシャープ」にあたる音。日本のクラシック界では伝統的にドイツ音名を用いる。

※幻想:ショパンの幻想即興曲。難曲ではないが、これを弾く人はピアノ歴が「それなりに」あると思ってもらってよい。