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恋とピアノと私 #7

放課後の音楽室に向かう足取りは軽い。

練習場所は、ふだんの授業であまり使われない第二音楽室である。

校舎最上階の端に位置して、周囲の人気も少ない。

気兼ねなく楽器を弾くのには最適な場所と言っていい。


静まった廊下をひたひたと進む。

ふと、外を駆け回る運動部員の声が背後から迫った。サッカー部だろうか。チームメイトを鼓舞する叱咤の掛け声が、やにわに自分に追いつき、追い越していく。

音楽室の古びた引き戸を前に、借りてきた鍵をポケットから取り出す。鍵穴に差してひねると、思いのほか大きな音が立った。

扉に手をかけ、力を込める。建付けが悪く、勢いよく引き開けないといけない。鍵を開けたら、ぐっと体重をかけ、こじ開ける。

ふわりと、風が流れる。


カラスの鳴く声がすぐ耳のそばに聞こえて、思わず振り返る。

廊下の四角い窓の外。

黒い鳥が翼を広げて三羽四羽。西日を浴びて山のほうへ急ぎ遠ざかっていく。日に日に冷たさを増す乾いた北風が、鳥たちを真正面からあおる。容赦なく追いやられるカラスは、恨みがましく、もう一度「かぁ」と高らかに鳴いて去る。目を細めて、それを見送る。

音楽室には冷気がよどみ、夕暮れ時の淡い闇が静かに差し込み始めていた。

使われていない教室特有の、おごそかで、どこか物憂げな雰囲気の中に、肩をすくめてそっと忍び入る。

おじゃまします。思わずそう言って一礼したくなる。申し訳ない気持ちさえ沸いてくる。身震いしてしまうのは、決して冷たい空気のせいだけではない。

明かりを点け、そろそろと足を踏み入れていくと、しかし、室内はにわかに活気づいた表情を見せる。ふだんの学校の喧騒がよみがえるように、止まっていた時間がおもむろに動き出す。

それでようやく自分は、息がしやすくなるのを感じる。



グランドピアノにかけられた覆布を取り、近くの机の上に放る。

屋根はひかえめに、少しだけ開ける。

完全に閉めておいてもいいのだけれど、グランドならやはり、開けたほうが弾いていて気持ちがいい。箱に押し込められた、くぐもった音でなく、ぱっと花開いたような、明るく華やかな音が出る。広い部屋で弾くグランドピアノでしか、味わえない音である。

椅子はすでに自分に高さに合っているが、つい何度か上下させては、結局元の高さにして座る。

譜面台を起こし、鍵盤の蓋を開ける。

蓋は、コトリ、かわいらしい音を立てて開く。

鍵盤を覆う濃い紅色のフェルトの布を取り、小さくたたんで脇に置く。黒白の世界がたちどころに現れる。

整う。ここまで一連の儀式。

好きなのは自分だけだろうか。

準備も、楽しいのだ。


しゃんと背すじを正し、中空を見て深呼吸する。

両手を合わせる。冷えた10本の指に優しく息を吹きかけて温める。

ひんやりした鍵盤に指をかけつつ、壁にかかった時計を横目に見上げる。


約束の時間には、まだ少し、早い。


(続く)