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それでも自分の道を切り開いていこう

創作や表現における、自分の在り方を考えている。元々、自分がやりたくて始めたことなのに、気付くと他人からの承認を待っていたり、当初志していた目的から外れたりしてしまう。時折、何のためにやっているのかがわからなくなり、やる気が減退する。初心を思い出すためにも、自分と同じような生みの苦しみを抱えている人のため、また自分のために創作するということについて創作していきたい。

目的がすり替わる

最初、詩やブログをやり始めたのは、ただそれがやりたいという理由だけだった。目的=自分のやりたいを叶えるため、だった。表現力、文章力を磨きたいという一心で書き続けていて、それによって自分の成長が促されていく実感が持てていたことがモチベーションにつながっていた。それがいつの間にか、他人から承認を得ることに目的がすり替わることがある。

おおよそ自分の成長が鈍くなり始めたから、行為するための目的を見失いかけていたのだろう。自らのやる気を促すために認められることを望み、褒められるために書く内容まで変えそうになったり、あの人が読んだらこれをきっと気に入ってくれるだろうという一種の卑しさみたいなものが文に含まれたりしていった。

縦を横に変えてみる

自分を下に置くと承認を求めることになる。日本は歴史的に見て縦社会の文化がある。しかし、生まれたときに差はなかった。同じ人間であったはずが男か女かに身体の構造上分けられ、次第に才能の有無によって職場まで変わってくる。

無意識の中に目上、目下という関係性を包括してしまい、まず対等先にありきということを忘れてしまっている。権威主義は否定していない。生き方に多様性はあっていいが、縦社会であることが常識化してしまうと一種の生きづらさが生まれてくる。

その生きづらさとは、目上と思しき人の意思決定により、右に行くか左に行くかが判断されてしまうということ。人は上司のために生きているわけではない。己の幸福を追求しないことには、本来の目的が影に隠れてしまい、他人の人生を生きることになる。やがて生きることや作ることの喜びを失う。

自らコントロールできる範囲のことに集中する

横のつながりを意識することが、自分と他人をシャッフルさせるように、まず最初に同じ人間であるという客観的対等性を思い出させてくれる。そして自分自身にとって何が最善かという目的意識を取り戻す疑問を持つきっかけにもなる。

行為し成長していくことや達成したい目標を目的にしていた場合、共感されることはモチベーションを向上するための手段であったはずが、手段それ自体が目的化してしまい、結局、他者ありきのモチベーションの下に生きることになる。不定期な承認に身を任せていると、共感が手に入らなかったときにやる気を保てなくなる。

物事を継続するのに必要なのは自らの意志である。他者の行為(あるいは好意)はこちらの思い通りにはできない。大事なのは、自分のコントロールできる範囲に集中すること。それは礼儀を失ってしまえということではなく、むしろ、もっと自分に対する礼儀(霊性)を取り戻そうとする在り方への話とつながっていく。

ライスワークとライフワーク

在り方とは、表現や創作だけでなく仕事にもつながった生き方の問題だ。人には人柄や人格や性格などの気質があるように、生まれながらにしてある程度の方向性が決まっている。根拠は直感でしかないが、自分という存在に合った生き方をすることで魂がエネルギーを纏う。

ゾンビのような顔をして街を歩いている人は、生き方の方向性が自分の在り方といたずらに違っていて病み(闇)に向かっている。ライスワークとライフワークのバランスの話をしたい。ライスワーク=ご飯を食べていくための仕事、ライフワーク=好きなことをやるための活動。

基本的に人間は食べていくために働かなければならず、たとえ食べていけても働かざる者食うべからずという諺に縛られ、長い休息をとることが憚られる社会である。あまり意味がなくても労働しているという感覚によって気が休まる。それもひとえに縦社会による弊害の権化であり、日本という国の生きづらさを象徴している。

ライスワークは生活のためとはっきり区切り、その基盤を固めることによって安心感が得られると割り切ったほうが、仕事を生きがいにしてしまわない第一歩になる。ライフワークだけで生きていくのは至難の業。ライフワークで無理にライスを食おうとごっちゃにするより、ライスはライス、ライフはライフと二分化したほうが結果的により良いライフワークを行えると思う。

成功の定義について

ライスワークとライフワークを同時並行できる人は並外れているからこそ、人々の憧れの的になるのだろう。ところで、よく「成功した人がする〇〇」みたいな記事を見かけるのだが、問題は〇〇のほうではなく、「成功」という言葉が意味する定義のほうではないだろうか。

一般的に考えると金持ちで権力や名声があり、幸せにそうに見える人か。多くの人が幸せに見られるような特訓をしているように見える。それほど高い年収でなくても、健やかに生きている人はいる。成功という概念に無意識に加味してしまう印象は、まさに縦社会の在り方そのものを呈している。

尊敬できる対象から学ぼうとする姿勢を持つことは大切でも、その人のすべてが自分にマッチする可能性はゼロ。その差異に敏感になること。一般的な高みを目指すことが自分の幸せになるとは限らないこと。上流を目指すということは下流を作り出すということ。

夢を見させてくれる社会が、決して、夢を叶えやすい社会だとは思わない。理想と現実のギャップに苦しむのは、憧れを抱いた本人だ。あの人のようにならなければいけないという強迫観念に押し流されるより、学べるところは学び、後は自分の在り方という本流を見つけていく。

でないと自分が何者なのかわからなくなり、何をしたらいいのかわからなくなり、ともすると自分を責めることにつながりかねない。誰を信じ、どのように人生という道を切り開いていけばいいのかという漠然とした不安感は、人々にコンプレックスや劣等感を植え付けている。

それでも自分の道を切り開いていこう

この世界に無条件に信じられる対象はない。ならば、自分という人間と他人との間にある差異を極めていくのもいい。群れの中で顔の消えた存在になるより、道のない雑木林に道を作っていくのもいい。その道は、安心できないし、食いっぱぐれる不安もある。が、生きるとはそういうことだ。

仕事に没頭していれば、自分と向き合わずに済むかもしれない。しかし、それは自らの在り方を無視してまで貫く価値のあることだろうか。我が道は行くのは孤独な人生にもなるけれど、一生懸命に生きた記憶は美しい思い出になる。

周囲から自己満足だと蔑まれても、なにがんばっちゃってんのと小馬鹿にされても、何もしたことのない人にはその痛みがわからないだろう。人は挑戦するから失敗する。挫折もする。何事も経験するほどに無力を痛感し、学習するほどに無知だと感じる。しかし、その無力感こそが光だ。

他人から承認を受けるためではない、自分が自分の道を行っている光だ。人と比較し落ち込んだときは、壁にぶつかっているときほど素晴らしいのだと思い直し、さらに道なき道を行こう。その時、隣にいてくれるのは他の誰でもない過去の自分だ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。