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みっつ通信

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慣れ親しんだ日々を、日々、書き換えようと模索しています。
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2021年7月の記事一覧

このままでよくないから勉強するんでしょ

家の中の空間を良くしたかったら、インテリアよりまず掃除じゃないかなと思う。特におろそかになりがりなのが拭き掃除。この作業を嫌うと、空気は淀んだままになる。今月初めに寝室と居間のカーテンを思い切って新調したのだが、さすがにすぐには汚したくないので、一生懸命、彼女と窓拭きをした。長年、同じ部屋に住み続けていて、一番、空気を良くするには窓拭きかもしれないと思うに至った。良い空気を取り込みたかったら、まずは窓。窓が汚い部屋は全部汚い。 言いにくいことを言ってみる空気といえば、日本に

目指せ、遅咲き。

いえい♪いえい♪夏バテで食欲不振♪おれ人間不信♪ あ、あつすぎね?日中家でゲームもできないんですけど。まぢなんなんですか。クーラーほしすぎるんですけど。 ところで、所ジョージは家の中で「ところでジョージは?」とか言われてんのかな。 やべえ、あつすぎて頭ヘンになってる。...元からヘンか。だよな。 入り方のテンションおかしくて、このまま最後までブログ書く勇気なくなった。でも主題に入ろう。 自分に期待しなくなったら楽になった すうじはすごい。人はお金という数字に突き動か

それでも自分の道を切り開いていこう

創作や表現における、自分の在り方を考えている。元々、自分がやりたくて始めたことなのに、気付くと他人からの承認を待っていたり、当初志していた目的から外れたりしてしまう。時折、何のためにやっているのかがわからなくなり、やる気が減退する。初心を思い出すためにも、自分と同じような生みの苦しみを抱えている人のため、また自分のために創作するということについて創作していきたい。 目的がすり替わる最初、詩やブログをやり始めたのは、ただそれがやりたいという理由だけだった。目的=自分のやりたい

人間関係は距離感が10割

家族だから恋人だからという理由で、本当に相手のものを漁ってもいいのだろうか。「信じる」という言葉は、そこに明確な根拠がないからこそ使われる。信じられないから、信じるために相手のことを探ったり、プライバシーを侵したりしても、また新たに疑いが生まれ、結局、負のループに陥る。「そっとしておくこと」ができる人は距離感のとり方を知っている人だ。 私は、一緒に住んでいる弟の敷地(個人スペース)には絶対に入らないし、弟も私のスペースには一歩たりとも近付かない。そして、そこにそうと決めたル

自分から愛してみせろ。

不機嫌な人が多い気がする。笑いをこらえるとちょっとしたことでぶはっと笑ってしまうことがあるように、怒りをこらえるとおかしな方向でドカンと噴火するようにキレるんじゃないかと思っている。感情を我慢することは美徳でもなんでもなく、ただ自分の感情に対して無関心か雑なだけだと思う。 か弱いふりをして愛されようとしても無駄だ。そんなふりをして得られる愛なんて愛でなく、相手にとって都合のいい対処法に過ぎない。本当に優しさのある人とは、言うときはビシッと言う人だと思う。今の時代で叱責なんて

何事も一生懸命にそれをやる人がいれば、それは価値のあるものになる。

丸々三日間夏バテしてしまい、ようやく今日復調してきた。部屋の中をまるで熱波が通り過ぎていくようで、ささやかな抵抗として台所の小窓にすだれをセットした。紐で括り付ける等の工夫を凝らし、入ってくる風に吹き飛ばされないように繋ぎ止めた。これで多少見栄えが涼し気になり、いい感じ。 西日が当たる部屋で寝ていると、いつ熱中症になるかわからないレベルで、命の危機さえ感じる。睡眠命というか、6~7時間だとまともに眠った気がしないという人生を生きてきたので、早起きすると意識が朦朧とする。

君の人生は一回じゃ惜しい

自分は何もしないくせに、いっちょまえにマウントだけはとるという謎の態度、あれは一体なんなんだろう。恥ずかしくないのだろうか。とりわけイエスマンに多い気がする。そしてダントツ、男に多い。嫉妬心からくる羨望のまなざしなのだろうか。負けたくないという闘争本能なのだろうか。どちらにせよ、人に嫉妬する暇があったら、なんでもいいからやってみたらどうだと思う。負けた気になっているなら、なんでもいいからやってみろと思う。文句を言う権利があるのは、それからだ。 下の名前で呼ばれることの少なさ

人生から試されている

ツイートのいいねの数や、誰にいいねされているかなんてことまで気にされるという事案が度々起こるのだが、そんなに他人からの評価が重要な指針になるのだろうか。いいねの数や誰にいいねされているかを基準に、その人のことを評価しなければいけないのだろうか。この人はウケてるぞだからすごいなんて今どき小学生でもやらないんじゃないか。一体、何を気にしているのだろう。 評価や賞レースなんて、あくまで大衆受けするかどうかくらいの基準でしかない。特に芸術なんて評価の外にあったほうがいい。例えばの話

即興的に生きること

「ブログ読んでるよ」と言ってもらえると単純に嬉しい。今までの人生は応援されている感覚に乏しかったので、読んでる見てると伝えてもらえるだけでやる気が倍増する。とはいえ、応援されなくても、この世にファンが一人もいないとしても、自分のやるべきことに集中するつもりだ。 このご時世、やたらと気が散る。気が散って、散り散りになって、何も残らない。自らの意思で、「集中できる環境」を作り出さないことには、何をやるにしても落ち着かない。人間はリラックスした状態が最も性能を発揮する。という意味

努力は不要か

自分でも気持ち悪いなというくらいnoteの更新頻度が高い。そんなことを書くと、意識化され更新するたびに「うわ三森さんまた更新してる」とより強く思われそうで怖い。ということを書くと、「うわ俺自意識過剰で気持ち悪」となり、結局、自分のことを気持ち悪がるという無限ループに入り込む。 アインシュタインの言葉に、「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる」という名言がある。自分がちゃんと学べているかはともかく、書け

もう一度この人生でいいのか

無人島にいる。このままじゃ寒くて死にそうだ。早く火を起こさなければいけない。適当な枝を拾い、一生懸命、それを両手で回す。やらないと凍え死ぬ。やるしかない。ようやく火種ができる。感動している場合じゃない、今までの努力を台無しにしないよう、火口に移動した火種に素早く息を吹きかける。ボワッと燃え広がる。前もって集めていた枝にそれを投入し、焚き火を作る。これでようやっと体を暖められるぞ。それに魚だって焼ける。 けっこうテキトーに書いてしまったが、こういうイメージが突然、頭に浮かび上

何者であるかなんて気にしなくていい

彼女とおしゃべりをしながら面白かった内容をメモり、それを元にブログを書くというのがほぼ日課になっている。「そういえば一番つらかったときっていつだったけなあ」と布団に寝転がりながら、ぼんやりと考えていた。その話を横にいる彼女にすると、話が膨らんでいき、「あれだな俺はブックオフに行った帰り道だな」という答えが出た。 父と一緒に暮らしていたときのことをよくブログに書くけれど、実際、虐待のつらさというのは尾を引く。離れれば解決という話ではない。その渦中ももちろん大変だけれど、それ以

遊ぶために生きようよ。

生きていけるだけの衣食住があればよい。そう思うのに、なぜ人々はこんなにも真面目に働いては心身をすり減らしているのか。それは端的に言って、「なんだかんだ金を稼いでいる人が評価される時代になってしまったよね」という一言に集約させられるのではと思う。要は真面目すぎて、一周回ってつまらないのである。資本主義の社会なので、もうこれは俺が死ぬまで改善されないのだろうなと思う。 結局、人は「優越感」に浸りたいだけなのではないだろうか。「あなたより私のほうが優れている」と示したいだけなので

主役になろう。

主に生きることが虚しくならないようなことだけについて書いていきたいと思っている。基本的に自分の頭の中を開示しているだけで誰かに押し付けたいと思っていることはない。「普段から俺はこういう風に物事を見ている、感じている」ということだけを言葉にしていきたい。不幸の根源は「暇」にある気がしている。人間、暇を持て余すと余計なことを考えるようになり、考えなくてもいいことまで考えてしまうように思う。 最初、聞いたときはあまり信じられなかったのだが、普通の人はどうやら、「物事を考えようとし