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主役になろう。

主に生きることが虚しくならないようなことだけについて書いていきたいと思っている。基本的に自分の頭の中を開示しているだけで誰かに押し付けたいと思っていることはない。「普段から俺はこういう風に物事を見ている、感じている」ということだけを言葉にしていきたい。不幸の根源は「暇」にある気がしている。人間、暇を持て余すと余計なことを考えるようになり、考えなくてもいいことまで考えてしまうように思う。

最初、聞いたときはあまり信じられなかったのだが、普通の人はどうやら、「物事を考えようとして初めて考えが始まる」らしい。自分の場合は違う。常に思考の蓋が開いていて、何をしていても考え事が止まらない。しかもそれについて、考えないほうが楽だとは思うが、もう長い間、自分と付き合ってきてしまったので逆に長所だと思うようになった。どれくらい自分と同じ症状(?)の人がいるのか計りかねるが、そんな自分のことを肯定していきたいと思っている。それでも苦しいことに変わりはないので、我流ではあるが、自分が実践している思考との付き合い方について論じていきたい。(かっこつけた)

情念について

先ほど、暇だと余計なことを考えると書いた。この「余計なこと」のことをここでは情念と言いたい。辞書を引くと、情念とは、「心にわき、つきまとう感じと思い」と説明されている。とりわけ、愛憎にも似た気持ちのことを指したい。何もしていないと誰かがああしたこうしたという情報が目に入ってくると、一気に脳内がその情報に刺激されてしまい、頭の中をグルグルと回る。それは嫉妬の感情であったり、被害妄想であったりする。この情念にとらわれずに生きていくことができるだけで、ずいぶんと心健やかに生きていけるのではないのだろうかと思う。要は、「頭空っぽ性」だ。

自分によくあるパターンなのだが、考え事が悪い意味で煮詰まってくると、体がまず最初に動かなくなる。たぶん、人は脳内が空っぽでないと体が動かない。そして、その状態をどうにか抜け出し、目の前の物事、たとえば家事などに着手すると、先ほどまで悩んでいた情念が頭の中から消えていることに気付く。どこに行こうか、何をしようかと考えている間は体は動かない。いざこうしようと決めて、とりあえず体を動かしてしまうと電車に乗ったかのように目的地まで連れて行ってくれるという体験をすることがある。

行動を起こすこと。この行動とは劇的なアクションではなく、ささやかな身動きでいい。ちょっと掃除機をかけてみるとか、料理を作るとか、洗濯機を回すとかそれくらいのことでいい。まずは頭を空っぽにしないことには延々と愛憎の念にとらわれてしまい、本来、自分がやるべきことに手をつけられず、気付いたら、時間だけが過ぎているなんてことが起こる。自分の場合、普段から考えていること、したことを日記のような形式もしくはメモ代わり程度のノリでブログに書くようにしている。そうすることで情念から解放され、かつ、ブログを更新するという目的も達成できる。

思考の9割は被害妄想説

勝手なことばかり言うが、先述の「愛憎の念」。これはぶっちゃけそのほとんどが架空だと思っている。もう少し表現を強くすると、「被害妄想」だ。あまりに情けなくなるので、あまり書きたくないのだが、個人的にすべての付き合いに対する根源に「愛憎」が秘められている気がする。多くの場合で会っているとき、話しているときが一番楽で楽しく、離れて一晩過ぎると、不思議と「心に邪念」が湧き始める。いつもこれに苦しめられている。どれくらいの人がどれくらいの苦しみを抱えているのかまではわからない。ただ同じような人もいてくれるのではないかと思って書いてみる。それこそ、暇なときの時間つぶしがてらに読んでいただけると嬉しく思う。その瞬間だけは、愛憎の念(悲しみや悩みも含む)から解放される人がいたら万々歳だ。

あまりに大げさだが、人の苦しみの根源はそのほとんどが被害妄想で、リアルに面と向かって言われた心に酷く突き刺さる言葉や過酷な体験というのは頭の中のウェイトほどの実体はないのではないかと漠然と思う。誤解されたくないので説明いたしますと、これは出来事の重さを軽んじているのではなく、なぜだか浸透してくるあいつ(情念)が頭の中のウェイト占めすぎだよね問題の提起をしています。ファクトがないのにもかかわらず、「”それ”は起こった」と脳内がバグる。本来、起こった気がしているだけで、実際に言われてもいないことを真実化してしまう。これがなくなれば、健康な人間の不幸量は一気に減るんじゃないかと思う。そういう意味での「切り替え速度」がマジで肝心だと思うのです。情念についての項目で、「とりま家事しましょうぜ~♪」と雑に気晴らしの方法を書いたが、それだけじゃ物足りないのでもう少しお付き合いいただければ幸いです。

相性の悪い人とは付き合わない

で、人は腹を探る生き物だと思うのです。そもそもで相手のことを全部知ろうなんて無茶で、どんなに大切な家族だって、その人のすべてを知るのは難しいと思います。「自分はあの人にこう思われているのではないか」というのは一言で表すと、「不信感」だと思います。それは生きるためのセンサーみたいなもので、そうしないと身を守れないから、いつ攻撃を受けるかわからないから、なるべく相手の情報を持っておきたい。そう思うのが人間の性なのではないかなと思います。だから、スーパーなんかで隣で品定めしているおじちゃんとかおばちゃんにいきなり話しかけられるとビビります。

この人は信じられるに値するだろうか。よく知らない人に不信感を抱くのは当たり前で、ゆえに腹を探ったり、ぶっちゃけどう思っているのと飲み会で本音を聞き出そうとします。「知ること」が「安心感」につながる。逆に知らないと緊張する。「どんな人」かわかってくれば不信感を抱く機会も減ってくると思われます。なんで突如として敬語になってしまったのかわかりませんが、このままいきます。

まずは相手のことを知っていくことが大事だと思いますが、どうしても相性の合わない人がいますよね。ここでいきなり結論です。そういう人とは付き合わないのがベストです。言い切りました。たぶん、どんなに頑張っても、「その人とは相性は合いません」と遺伝子に組み込まれています。たまたま同じ職場にいるだけで、別に同僚と無理に仲良くなる必要はありません。当たり障りなくやっていきましょう。......それだけだとつまらないので話の方向性を変えてみましょう。

つまりは誰といるかが肝心だ

そういう、この人といてもあんまり楽しくないなと思う人とは無理に仲良くする必要なんてないことは当たり前のことだと思いますが、それじゃあどうしたら邪念や情念から解放されてもっと前向きになることができるんだという問いに答えていきたいと思います。この問い、自分からの問いです。「人を選ぶ」なんてやって当然のことです。誰彼構わず仲良くなれたら、それは神様だと思います。知らんけど。結局、情念から解放されるにはアクションをしていくという答えに変わりはありませんが、それではもし「付き合える人が選べるなら」を前提に話を進めていきましょう。

ここでも一言で終わります。「自分のことを肯定してくれる人」と付き合うことです。これだけです。スマホに余計なアプリが入っていたら削除しますよね。さすがにもうネットリテラシーなんてそれなりにある程度は広まっていて、情報の取捨選択なんて誰でもしておられるのではないでしょうか。それと同じです。社交の場に出て、新しい出会いを見つけるのは機会として多くあったほうがいいと思いますが、目的を見誤らないことです。友達が多いほうがいいなんて大嘘です。大切なのは、「自己肯定感を上げてくれる人」と付き合うことです。たとえ嘘でもいいんです。「かっこいいね」、「かわいいね」。そう言ってくれる人と付き合えばいいんです。

何の話をしているのかわからなくなってきました。最初のほうのノリと変わりすぎて、もしかしたら途中から別人が書いている説が浮上してきました。つまりは、「誰といるかが肝心」です。自分で自分を肯定するには、自分の短所だと思うところさえ愛しく感じるように自己改革していくしかない。もしくは他人の良いと思うところをどんどん褒めて肯定していく。そうした愛が膨らんでいくような人間関係の中に居続けることが幸せになる秘訣なのではないかと思います。「何をやるか」というより「何をやらないか」です。一つの情報だって脳に簡単に影響してくる。それならば、身近にいる人の影響力は絶大だ。

主役になろう

ここからはおまけです。お友達と話すような感覚で書いていきたいと思います。というか独り言です。突然ですが、うちの父はとっくに亡くなっています。ずっといいことなんてしてくれなかった、何もしてくれなかったと思ってきました。でも、最近、突然に思ったのです。「もしかして義務教育受けなくてよかったんじゃない?」と。父の教育方針で小中学校さえ行かずに育った三森ちゃんなのですが、まさかの大逆転劇が自分の中で起こりました。

うちの父も本来、心の根っこでは子供の幸せを願っていたのではないかと思います。「殴る側だって痛いんだぞ!」が口癖の父でしたが、そんなことするために生まれてきたんじゃないだろうなと思いました。知らないけど。人の願望の一つに、「支配下に置きたい欲」があると思います。コントロール欲です。相手が自分の思うままになってくれる快感みたいなものがあり、無条件に言うことを聞いてくれる、命令に従ってくれる相手というのはうちの父にとってもしかしたら、一番最初の人だったのかもしれないです。俺と弟は。だから、甘えた。

学ぶ機会を得られずに育ったことは残念に思いますが、今が一番幸せです。生んでくれてありがとう(生んだのは母だけど)と父に感謝まではできませんが、せっかく生まれてきたのだから幸せになろうとは思っています。幸せとは、つまり安心感なのではないでしょうか。こうして、安心して文章が書けている今の環境をとても愛しく思います。世間では、周囲に合わせることが大人とされている。それもぶっちゃけ、教育の賜物なのではないでしょうか。皮肉ですけど。うちの父はもしかしたら、ずっと安心できていなかったのかと思いました。加害者になろうとしていたなんてつもりもなく、さんざん被害を受けてきたから、その反動で暴力に走った。

暴力がなくてよかったのか。たしかに殴られるのは痛いですが、殴られる痛みは知りました。長い間、視線の内面化が行われました。父の視線が自分の中に入り込み、そいつが俺に指図する状態です。気付いたら被害者になっていて、ああでもないこうでもないうまくいかないのは全部社会のせいだと嘆いていたら、いつの間にか加害者側に立っていました。今一度、思い出したいと思います。全権は自分にあります。親でも、自分の中に棲み着いている魔物でもなく、自我である主体である自分自身に行動の決定権があります。

主役になりましょう。みんながみんな自分を主人公にしてもいいんです。脇役じゃだめです。主役になりましょう。ああだこうだ言ってくる人は差し置いて、自分自身を誰よりも輝かせましょう。それでいいんです。否定してくるやつがいたら無視です。否定してくるやつは他人の人生を生きてしまっています。自分だけ磨いていればいいんです。誰かの人生を生きる必要なんてないんです。誰よりあなたが主役で最高に輝いていれば、私は嬉しいです。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。