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もう一度この人生でいいのか

無人島にいる。このままじゃ寒くて死にそうだ。早く火を起こさなければいけない。適当な枝を拾い、一生懸命、それを両手で回す。やらないと凍え死ぬ。やるしかない。ようやく火種ができる。感動している場合じゃない、今までの努力を台無しにしないよう、火口に移動した火種に素早く息を吹きかける。ボワッと燃え広がる。前もって集めていた枝にそれを投入し、焚き火を作る。これでようやっと体を暖められるぞ。それに魚だって焼ける。

けっこうテキトーに書いてしまったが、こういうイメージが突然、頭に浮かび上がってきた。そのことを伝えたくなったのは、その火こそが生きる意欲になるのではないかと思ったからだ。何かに手を付ける前は、体中冷えており、気力も湧いてこない状態。それが何かをやってみたら、火種になる。その火種が最終的に自分の命を助けるようなビッグな火になり、自分を遠くへと連れて行ってくれる。そんなようなイメージを抱いた。

決して、まずは何でもいいからやってみよと言いたいわけではなく、生きるために必死になっていたら、自分の中に小さな灯火ができていた、その火種を消さないようにしていたら、いつの間にか人生を肯定できるようになっていた、なんてことが起こり得るのではないだろうかと思ったのだ。

昔、頻繁に自分を責めていたとき、人生に対して丸ごと否定的だった。過去に遡ってやり直したい、もう一度生まれ変わりたい。悲観的になり、今を完全否定していた。が、最近は違う。別に人生において何かが上手くいっているわけではない。むしろ、今までと何ら変わらない生活を送っている。なのに、不思議と今は自分や人生に対してとても肯定的になっている。

「調子が悪い」と思うと、どこかに原因があるのではないかと必死に自分に悪さしているものの正体を暴こうとする。結果、改善される場合もあるかもしれないが、基本的に上手くいかない。逆に「調子が良い」と思えるとき、これのおかげかもしれないと”果実”を探そうとする。何が言いたいかというと、好調なときは得てして人生を全肯定できるが、不調に陥ると人生を全否定したくなるということだ。

「神は死んだ」というニーチェの有名な言葉がある。皮肉なことに文明を発達してきた人類はただ唯一、無条件に信じられる存在である神を失ってしまったということだ。神さえ信じていれば神託があり、導かれるはず。だが、今の社会はどうだろう。信じられるものがなくなった。これさえ信じていればいいという存在を失ってしまった以上、例外はあれど、希望を持って生きることができなくなってしまったということでもある。

金さえ稼いでいればいいか。恋にだけ走っていればいいのか。それで人生が完走できるのであればそうしたほうがいい。でも、どんな目的も達成した途端に、また新たな目的が必要になり、延々と同じループを繰り返すことになる。そこにあるのが虚しさだと思う。いつになったら終わるのか。未来が見えず、希望を失い、堕落し病んでいく。そうした状態を幸せとは言い難い。

人生とは焚き火である

焚き火は放っておくと消えてなくなる。雨が降っても消える。常に目を配り、薪を焚べたり、送風してやったりと上手いこと気を使わないと消えてしまうし、逆に広がりすぎると火災の原因にもなる。火は特に加減が大事で、一歩間違えると火事につながる。体を暖めるのにも使えるが、手を触れれば火傷する。

意欲や気力もそうだと思った。放置もだめ、逆に燃やし過ぎると危険度が高まる(空回りする)。自分の心の中に灯る火。目には見えないからこその難しさがあるが、常に気を配っていないと人生は簡単に真っ暗闇に堕ちる。

もし、もう一度同じ人生をループすることになると決まっているとしたら、自分にできることは今この瞬間から人生を肯定して生きていくという態度の問題になるのではないだろうか。環境をコントロールすることはできない。災害で一網打尽になる可能性と背中合わせの状態で、もし、変えられるものがあるなら、それは態度の問題になってくる。

誰だって追い込まれる瞬間が生きていればあると思う。その瞬間に、だめだと嘆けばすべてが否定され、よっしゃかかってこいと受け止めればすべてが肯定される。そんな気がしている。今、試されている。嘆き悲しむか、凛とした態度で臨むか。心に灯った小さな火を吹き消すか、燃え上がらせるか。常に、選択の余地は残されている。

死んだ後のことはわからないが、今、生きていることはわかる。我思う故に我ありじゃないけれど、今、精神がここにあることはわかる。人生は無意味かもしれない。でも、意味があると思って生きることはできる。すべての自由はここ(ハート)にある気がする。生まれたときのスタート地点に差はあれど、生きている時間の流れの速度は同じはずで、そこはみな平等なんじゃないだろうか。

目の前にいる人を殴ることもできれば、愛することもできる。ゆらめく自由を前にして、振る舞いが試されていると感じる瞬間がある。信じられるものを失った社会だからこそ、今、何か心の拠り所となるようなものを胸にリスタートしてもいいじゃないのだろうか。それが今の自分にとって、この胸に宿る炎であり、意志であり、気力であり、エネルギーであり、生きがいである。

さあ、今日はどこへ行こうか。それとも家にいようか。ゆっくりしようか、あくせくと働いてみようか。自由意志がないにせよ、あるにせよ、いずれにせよ、選んでいるという自覚がある限り、そこには自由という風が吹いている。もう一度、この人生を送るとしたら、今、泣くか笑うか。愚痴を吐き捨てるか、世界を信じるに値するものとして生きるか。常に、選べる。

自分を裏切るのはいつだって自分自身だ。さあ、今日はどちらへ進もうか。できれば、目の前の世界がぱあっと明るくなるほうへ歩いていけたらいいなと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。