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自分から愛してみせろ。

不機嫌な人が多い気がする。笑いをこらえるとちょっとしたことでぶはっと笑ってしまうことがあるように、怒りをこらえるとおかしな方向でドカンと噴火するようにキレるんじゃないかと思っている。感情を我慢することは美徳でもなんでもなく、ただ自分の感情に対して無関心か雑なだけだと思う。

か弱いふりをして愛されようとしても無駄だ。そんなふりをして得られる愛なんて愛でなく、相手にとって都合のいい対処法に過ぎない。本当に優しさのある人とは、言うときはビシッと言う人だと思う。今の時代で叱責なんてリスクが高すぎるから誰もしない。叱る人が減ったのは、相手のことを思って、ではなく、ただ自分を守るためである。

自分を肯定してくれる人や言葉を探すのではなく、まず、自分を守れるのは自分しかいないということを承知の上で、自分を守るための礎を築いていくことではないだろうか。何があっても、自分を肯定するための言葉を自分に用意しておく。その場しのぎの慰めなんて意味がない。生への圧倒的肯定感を持つこと。で、なければ他人に翻弄されるがままの操り人形になる。

未来を生きていると苛立ちを覚えることになる

過去にしがみついていれば仄暗い水の底に沈み、未来に生きていれば自分勝手に被害妄想を膨らませ、不安に苛まれる。今、この瞬間の真実とは何か。愛はどこにあるのか。人に嫌われているのではなく、自分が自分を嫌い、そのことを人のせいにしているだけではないか。

「ありのままの君でいて」とか、「そのままでいい」とか、そういう安心できる言葉は巷にゴロゴロと転がっているが、結局、毒にも薬にもならないことがほとんどだ。一瞬、楽になったような気持ちになることはあっても、長続きはしない。すぐにまた何もかもが嫌になる瞬間が訪れ、自暴自棄になりそうになる。

愛とか自由とか、そういう言葉は並大抵の深さではない。気安くポンポン使われるが、愛とか自由とか、そんな軽はずみに使われる言葉ではない。べらぼうに深えんだ。一度しかない人生、感情をテキトーに扱っちゃだめだ。気晴らしでごまかしちゃだめだ。

良いことは見えにくいが悪いことは見え見えになる

住む場所がなくなれば家のありがたみがわかり、食べ物がなくなれば食べることのありがたみがわかり、洋服を失えば着るものに対し憧れを抱く。目が見えなくなれば視力の価値を思い、腕が折れれば腕のありがたみがわかる。熱を出せば健康を思う。良いことは一瞬で当たり前になるが、悪いことは気持ち悪くなるくらい目の前に忽然と現れる。

肉体というものは恐ろしい。これを失ったら、この意識は消滅する。そんなリスクを抱えてまで一緒にいることを決めること。そこにリスクなんて文字はなく、君に会いに行き、君とおしゃべりする。今までもそうしてきた。これからもそうしていくだろう。

愛されることを待つな。自分から愛してみせろ。どんなに臆病になろうがそれでいい。慎重に慎重に愛していけばいい。怖がりながら、怯えながら。愛は恐怖と共にある。恐れながら、震えながら。それでもその小さな一歩が無限の可能性へと続いていく。まともな奴はたくさんいると信じて生きていくしかないだろう。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。