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目指せ、遅咲き。

いえい♪いえい♪夏バテで食欲不振♪おれ人間不信♪

あ、あつすぎね?日中家でゲームもできないんですけど。まぢなんなんですか。クーラーほしすぎるんですけど。

ところで、所ジョージは家の中で「ところでジョージは?」とか言われてんのかな。

やべえ、あつすぎて頭ヘンになってる。...元からヘンか。だよな。

入り方のテンションおかしくて、このまま最後までブログ書く勇気なくなった。でも主題に入ろう。

自分に期待しなくなったら楽になった

すうじはすごい。人はお金という数字に突き動かされながら生きている。こっちのが数十円安いと節約のために選ぶし、お金の増減に一喜一憂する。

お金だけじゃなく、年齢もそうだ。ここ最近で自分にもっとも影響した数字は20代から30代に突入したことだと思う。

責任感が二郎系ばりにマシマシになったとかそんな大仰な話でなく、逆にいよいよ自分にまるで期待しなくなってきた。

現実ちゃんの到来。20代までは夢を見ていたプリティな俺も、30になり、もしかしたら自分には何かすごい才能があって、いつかそれを誰かすごい人が見つけてくれるのではという淡い期待が消滅した。

つまり諦めた。他人にも期待しなくなったし、自分への期待も消えた。ネガティブ発言だけど、ここからが驚き桃の木山椒の木で、むしろ自由になったんじゃないか説が浮上した。

人は自分への期待を残したままで何かを始めると、比較的早い段階で、もっと評価されてもいい、もっとチヤホヤされてもいいという願望が生まれる。その理想と現実のギャップに苦しむ。

うっかりすると初心を忘れる。ピアノを弾きたいから弾いていたのにコンクールで賞を取ろうとすると弾くことが楽しくなくなる。マジモードに入る。

それと同じように、書くために書いていたのに、指先から生まれてくる言葉が楽しくてキーボードを叩いていたのに、気付いたら、修練のようになっていた。

遊びが仕事っぽくなった瞬間にやる気を失う。それが他人への期待がなくなったら、良いものは与えられるというより、自ら作り出すものなんだなと気付いた。

自分への期待をやめたら、もっと立派にならなきゃ、お金をもっともっと稼いで認められる存在にならなきゃ的プレッシャーから解放された。自分が自分に厳しく向けていた目が消えて、自由になった。

そして気が楽になった。リラックスした状態ほど自分らしい言葉(音楽)が溢れてくる。人生の喜びはここから生まれるのかもしれない。

評価は時の運と強く関係している。大なり小なり、一度でも成功体験があると、それに執着してしまうことがある。その重荷を下ろして、また純粋に遊んでいきたい。

ゆっくり時間をかけて咲いていきたい。何かを始めるのに遅すぎることはない。最初からうまくもできない。技術だけが長けても心の成長が追いつかない。

願わくば、自分が育てた木の陰で、誰かが暑さをしのいでくれたらいい。ゆっくりと生きよう。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。