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即興的に生きること

「ブログ読んでるよ」と言ってもらえると単純に嬉しい。今までの人生は応援されている感覚に乏しかったので、読んでる見てると伝えてもらえるだけでやる気が倍増する。とはいえ、応援されなくても、この世にファンが一人もいないとしても、自分のやるべきことに集中するつもりだ。

このご時世、やたらと気が散る。気が散って、散り散りになって、何も残らない。自らの意思で、「集中できる環境」を作り出さないことには、何をやるにしても落ち着かない。人間はリラックスした状態が最も性能を発揮する。という意味では、「物理的距離」の重要性を感じている。

たぶん、今の世の中は、「他人からの評価」によって回っている。昔からそうだったのかもしれないが、現代は少し事情が違う。視線の内面化が行われ、本来の主体性が失われ、第三者の意見に従うということが頻発している。

愛の戦争をしよう

家がある。これは大変ありがたいことだ。あって当たり前過ぎて、その尊さをすぐに忘れてしまうが、衣食住がないことには生命活動を維持できない。ブログの更新だってままならなくなる。物理的環境も大事だが、同じくらい精神的サンクチュアリも大事だと思っている。

サンクチュアリとは聖域のことで、個人的にそれを「俺のサンクチュアリ」と呼んでいる。前々回、人生とは焚き火であると書いた。意欲や気力は気を付けていないと、すぐに消えてしまうよというお話だった。ましてや野ざらし状態だと、管理のハードルもめっちゃ高くなるよと補足しておきたい。

意欲や気力を「意志」と統一したい。その意志を守るにも壁が必要になると、そんな風に今朝思った。聖域を教会だとする。その神聖な場に土足でガンガン踏み荒らすなんてことは誰もしないと思う。それなりの儀礼が必要で、そういったことをまとめて数日前の記事で、「君に入っては君に従え」と表現した。

壁を作ると書くとネガティブな印象を持たれるかもしれないが、壁は大事だ。天井を作れば雨ざらしにならないで済む。精神にも同じように、これ以上その失礼な態度で踏み込んでくると怒りますよゾーンがある。追い返しますよ。そうならないためにも相手をよく見、失礼のないように接することはあって当たり前の礼儀かと思う。

で、個人的にその壁の中にあるのが意志という感覚があり、気力や意欲などが祀られている。「よしここなら戦える」という気持ちになる。それは決して、人を貶めるための戦いの場ではない、言わば「愛の戦争」である。ここからならゆっくりと自分のペースで愛を世界に与えられる。そういう場所のことを精神的サンクチュアリと説いた。

人を叩かないでね

その聖域が踏み荒らされている現場が嫌でも目に入りまくる時代になった。おバカみたいな発言をするが、「人を叩かないでね」と思う。殴る蹴るはもちろん、精神的暴力もいけないよ。不思議と、リアルでは滅多に見かけないのに、ネットだと怖くなるほど叩き合いが行われている。陰口が表面化されている。

一線を越えまくりだ。聖域の荒らし合いを見ていると、宮沢賢治ばりに「つまらないからやめろ」と言いたくなる。今一度、「雨ニモマケズ」を読むべき時代なのではないだろうか。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

宮沢賢治『雨ニモマケズ』

教育の難しさ

正直、「教育」という言葉にピンときたことがない。「どうしようもできないでしょ」という諦念がある。ただ、一つ思う。人が病んでいく姿より、充実していく姿のほうが見たいということだ。

不登校になれば揶揄され、学校に行くことを善とする風潮がある。どんなに子供が泣き喚いても病んでも学校には行かせるべきだという風潮。その結果、子供が自殺をしようが鬱になろうが、誰もそんなことは知ったこっちゃないという態度を見せる。

不登校であることが苦しいのではなく、学校に行かないと変な目で見られるという風潮のほうに苦しめられているのではないだろうか。「〇〇は善」といった、思考停止が全国各地で行われているのではないだろうか。

結局は自己責任の時代だ。人の言うことをどんなに正確に聞いたところで上手くいかなければ、全部、個人一人のせいになる。結局、誰も救いの手を差し伸べてはくれない。そういう諦念感情が自分の中に根付いている。これは経験則に基づいた発言になる。

主体性が大事だと言われるわりには、社会に出た途端に歯車であることを求められる。考えてみれば色々おかしくないだろうか。学校では化粧は禁止と校則で決めているのにもかかわらず、社会に出れば化粧をすることがマナーだ。わけがわからない。お金を稼がないと生きていけないのに、学校では金を稼ぐことには触れない。

おもちゃのピアノマーカー塗り潰し事件

充実するには、まず喜びありきだと思う。それを今の教育は型にはめようとしてばかりに感じる。私が4〜5歳の頃に、家にピアノのおもちゃがあった。サイズはとても小さいけれど、ちゃんと音は鳴る。それが楽しくて鍵盤を叩いていたら、母がここが基本の音階のドレミファソラシドだと教えてくれた。だが、そこを覚えるまでは他の音は触ってはいけませんと言われ、どうしても他の音が触りたかった私は心に理不尽を感じたのか、翌日、すべての白の鍵盤を黒の油性マジックで塗り潰した。

あのときもっと自由に弾けたら今よりピアノのことを好きになれていたのかもしれないと思うことが大人になってからも時々あった。母のことを責める気はまったくない。ただ事象としてそういう記憶がある。守破離という言葉もあるように、まずは基礎を学ぶことも大事なのだろうが、それより先にまずは弾く喜び(即興性)がないことには先に進めないのではないだろうか。

「型」にはめられそうになると、いじめられている気持ちになっちゃう。喜びを失ってしまう。これは社会に出てからの仕事もそうで、個人的な成長を感じられないまま、延々と型にはまった仕事だけを任せられると虚しくなってくる。それを理由に仕事を辞めた人に対し、将来の心配ばかりを押し付けても空回りする。まずは「悲しみ」の理解(共有)をしないことには前へ進めないのではないかと思う。

動物は子孫、人間は思想を残す。

人の気持ちがわかるということは、人の悲しみがわかること。悲しみを理解しないことには次のステップへいけない。人は弱さと弱さでつながる。人間性という脆くも美しい性だ。動物のように競争意識だけを根付かせても、人間性がないことには喜びを感じられない。即興的に生きること。

時間軸の話になるが、「現在」は変動する。「未来」は予測不可能だ。明日、死ぬかもしれない。だが、過去はどうだろう。過去は記憶として定着している。過去に対する解釈は変われど、私にとってピアノ事件は忘れられない記憶になっている。それを良くも悪くも「脳の傷」と思っているのだが、どうせ傷つくなら、生きていることが嫌になる記憶より、もっと生きていたいと思わせてくれるような傷を望んでいる。

一周回って、愛の戦争とはそういうことを言いたかったのかもしれない。深い悲しみによって突き動かされることもあるので、一概にこれは良い悪いとは決められない。自分だって最近変革が起きて、父から理不尽な思いを受けてきて良かったのかもしれないとさえ思うようになった。

過去の記憶は、現在の自分の首を真綿でじわじわと締めてくる場合もあれば、解釈革命が起こり、まさかの原動力になるなんてこともある。だから、教育教育と気張らなくてもいいし、子供は勝手に逞しく育ったりもする。神経過敏になって必要以上に親が自分を責める必要もない。

個人的に「育て方を間違えた」という発言が超嫌いなので、そういう言い方をしない、人間性を否定しない親に憧れる。人間性を否定したら、残るのは動物的本能だけだ。

打算がない世界に対する憧れ

ご飯はおいしく食べたい。だが、好き嫌いしちゃいけないよと食べることが義務になれば誰だって食べること自体が嫌いになってくる。型の前に喜び。物事に対して知的好奇心を持てるようになること。

基本的に私は背中を押してくれる人が大好きだ。そんなことやるなと言う人より、やっちゃえと言ってくれる人のほうが好きだ。後押しを愛している。これをやったらこう思われるんじゃないかとか、そういう気が散る要素が多い社会にあって、人が何かを始めようとしたとき、続けようとしているとき、楽しんでいるとき、それらを後押しできる自分でありたいと思う。

人並み以上は人並み以上であって、すべてを平均以上にやるなんて無理難題だ。にもかかわらず、平均を下回るとだめのレッテルを貼られる。何よりだめなのは、人の気持ちをわかろうとせず損得勘定ばかりで考え動くことなのではないか。

損得勘定が行き過ぎると、よりによって落ち込んでいる状態の人に向かって責めるという事例が巻き起こる。誰かを褒めることによって相対的に人を貶そうとすること、誰かを貶すことによって相対的に人を褒めようとすること。どちらも褒められた態度ではないと思う。

昔話になるけれど、父からの罰によって、何度も寒空の下で、「気を付け」をさせられまくっていたのだが、「なんやねんこの理不尽早く遊びたい」と思っていた。子供なんて瞬間しか生きていないのに、体罰を与えることでしつけてもまたすぐに瞬間を生き始める。俺はその思いが今でも根底にある。俺は、今後とも「だからなんやねん感」に突き動かされて生きていくだろう。そして、それが今の「俺のサンクチュアリ」に祀られており、「即興的に生きろ」と耳元でいつも囁いてくれているのだ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。