見出し画像

人間関係は距離感が10割

家族だから恋人だからという理由で、本当に相手のものを漁ってもいいのだろうか。「信じる」という言葉は、そこに明確な根拠がないからこそ使われる。信じられないから、信じるために相手のことを探ったり、プライバシーを侵したりしても、また新たに疑いが生まれ、結局、負のループに陥る。「そっとしておくこと」ができる人は距離感のとり方を知っている人だ。

私は、一緒に住んでいる弟の敷地(個人スペース)には絶対に入らないし、弟も私のスペースには一歩たりとも近付かない。そして、そこにそうと決めたルールのようなものは存在しない。ただ、自然とそうなることがある。おはよう、おやすみ、ありがとう。そんな挨拶や感謝の言葉は、使うほうが気持ちいいから、自然発生的に使われている。

食器を洗ってくれたらありがとうと言う。寝る前はおやすみと言う。家族が帰ってきたらおかえりと言い、出かけるときはいってきますと言う。もちろん、儀式ではない。然るべきタイミングで使われる。言わないときは言わない。距離感も同じで、自然と落ち着くところに落ち着く。違和感があるなら捨ててもいいし、馴染むなら取り入れてもいい。

同じ家の中に住むには、心地の良い関係性を結べないと一緒にいることは難しい。相手が苛立っていれば声をかけたり、元気がなければ話を聞いたり。美味しいものが手に入れば分け合う。奪い合えば足りず、分け合えば余る。常に相手のことを気遣う。これだけ書いていると守らないといけないことが多くあるように思えるが、実際、何も難しいことはない。

シンプルに、お互いの邪魔をしていないだけだ。相手のプライバシーを侵していないだけだ。一定の距離感を大切にすることは、相手を遠ざけるためでなく、より快適に過ごすための暗黙裡である。個人的にルールは作らないようにしている。「言わずもがな」で生活が営めるのが理想だと思っている。しかし、「ありがとう」は言わないと伝わらない。挨拶や感謝の循環によって、場は安心できる空気になっていく。

思い合うこと

思い合うこと。自分の快適さばかりを押し付けるより、相手の快適さを意識していたほうが、かえって過ごしやすくなるということがある。どうしてもイライラが収まらない場合は、パソコンのノートや実物の日記に自分の今の思いを全部吐露して書くというのをおすすめする。ルールは一点、その書き物は誰にも見せないということだ。人のプライバシーを守るように自分のプライバシーも守らなければ、境界線を失い、なんでもありになってしまう。

大抵の場合、不機嫌になるときは対面の人にどこか文句をつけたいときだ。文句というのは言ってやりたいことだけでなく、愛されたいとか、もっと自分を見てほしいとか、いろいろな形容ができる。過干渉も過保護も腫れ物に触るような態度もよくない。恐怖心というのは、すぐに相手に伝わる。恐怖心とは「受け入れられません」という意思表示になる場合がある。放置するのでもなく、気配りが大事だ。

分かり合えなさを分かり合う

偉そうに書いてきたが、何を隠そうこの私も、ご多分に漏れず感情的になる一人の人間である。幸い周囲に勝手に人のタンスを開けるとか、スマホを覗くとか、日記を読むとか、そういったプライバシーを侵すようなことをする人はいない。それでもお腹が減っていたり、睡眠不足だったり、一日動いて疲れていたりすると、どうしても苛立ちが収まらず、些細なことで、「なんでわかってくれないの」という気持ちが膨れ上がり、「そこは言わずもがなでしょ!」と内心息巻いてしまうことがある。

食器をやりたくないのに洗ったり、面倒くさいのに洗濯機を回したり、集中したいタイミングで声をかけられたりと言い出せばキリがないのだが、そういうタイミングで感情的になってしまい、怒りをぶつけた結果、相手を傷つけてしまい、それによってこちらも「やってしまった」と情けなくなる。その挙げ句に、テンションが下がっている相手に対して、さらに追い打ちをかけるようにして責め立てることもある。

傷つけたことに対する罪悪感を払拭するためにあれこれ言うより、素直に謝ること。目には目をでは救われない。やられたらやり返す倍返しだでは破滅する。言い負かすことが目的になると終わりがなく、勢い余って人格否定なんてしてしまえば、行く先は悲しみの肥溜めの中。たとえ修羅場であっても忘れてはならない相手への思いやりがある。

ストレスの溜まる環境ではあったのだが、10代のころは弟と大喧嘩ばかりしていた。殴り合うし、鼻血は出させるし、母親に仲裁されるしで事実けっこう酷かった。だが次第に人生観や生き方について赤裸々に語る間柄になっていた。自分に理解できないものを叩いて終わらすのではなく、相手の価値観や意見を聞き、理解しようとする態度を持てるようになった。それが兄弟喧嘩を通して学べた。分かり合えない部分を分かり合おう。それが尊重だ。

親しき仲にも礼儀あり

つい、親しい仲になると忘れてしまいがちだが、礼儀だけは死守するべきだと思っている。ここが疎かになると、綻びが生まれ、関係性が脆くなる。柱に不良のある、いつ崩壊してもおかしくない耐震偽装の家のようになる。やってもらって当たり前のことなんてないし、その都度、感謝する。忘れずに日頃のお礼をする。関係性を豊かにする上で最も欠かせないのが、この「礼儀の精神」だと思う。

かといって言いたいことを我慢していると、憎しみに蝕まれるか、いつか火山のように噴火する。そのような状態で一度でも口撃してしまうと修復不可能な関係になり得る。そうなる前に、極力、言いたいことは我慢せずに小出しにしたほうがいいと思うし、その際、できる限り感情をぶつけないようにしたい。口調を気を付けるより、心の状態がすべて相手に伝わるくらいの姿勢でコミュニケーションを図りたい。

押し付けてしまっている時点で、相手は素直に受け取ってはくれない。自分の気持ちをわかってほしいときこそ、エゴを消さないと、自分の振る舞いを正さないと、相手には伝わらない。私は、傾聴さえしていればいいといったようなテクニック的方法論はあまり好きではない。その場に応じた言葉や仕草があり、常にその最善を選ぶような心掛けでいないと何も培われない気がしている。

最後に不慣れなまとめを

信じることに根拠はないのだから、粗探しをするのではなく、気持ちで乗り越えること。思いやりや気配りを大切に、適切な距離感をとること。イライラするなら、日記にそのままの気持ちをぶつけて書いてもいい。挨拶を大事に、感謝はちゃんと伝えること。相手への尊重、礼儀の精神を持つこと。言いたいことがあるなら丁寧に言うこと。我慢はしないこと。自分の体調を管理すること。安易に人をからかったりしないこと。

書けば書くほど当たり前のようなことばかりだが、たぶん当たり前のことほど難しい。きっと人間は思っている以上に感情的で、実のところそれほど理性がなく、環境や状態依存の生き物のようにも感じている。人間は猿より猿なのかもしれない。この記事を書いていて、常に頭の片隅になぜかあったのが、イエスの「罪を犯したことのない者だけが石を投げよ」という言葉だった。今日考えていることの9割を明日に引き継ぐという。昨今、いろいろな争いがあるが、この言葉の意味を咀嚼しながら今晩は眠りにつきたいと思う。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。