ほくろ

 彼女には小さなころからあこがれている女優がいた。

 左手にお酒のグラスを持ちながら、ゆったりと微笑む女性。酔いがまわったようなとろりとした、男を誘うような視線を投げかけている。その右目の斜め下には小さなほくろがあって、それが女優のトレードマークだった。

 彼女は昔から、右目の斜め下にほくろがある女優のファンだった。その女優がテレビに映るたびに彼女はしていた作業をいったん中断し、画面にくぎ付けになった。

 女優の持つ色気に彼女はうっとりした。それは、自分もこうなりたいという羨望からくるものであろうか。

 テレビに映る女優の顔を眺めるうちに、彼女は女優の色気がそのほくろからきているのではないかと考えるようになった。女優の目は左右対称で、鼻筋も真っすぐ、歯並びも整っていて、たしかに美しかった。けれど、それだけでは色気というものは出ないのである。試しに女優のポスターのほくろを指で隠してみると、女優の色気は跡形もなく消え去ってしまうのである。そこには真っ白い歯でニコニコと笑う、清潔で純粋な女性がいるだけであった。彼女が指を放すと、あの色気は復活して、女優は男を誘うように妖艶に微笑んでいるのである。

 やっぱり、ほくろが女優の色気を生み出しているのだわ。この五ミリにも満たない小さな黒い点が……。

 自分の発見に興奮しながらも、彼女は壁にかかった、ほくろのある女優の顔をうっとりと見つめた。

 彼女は十八歳であった。

 このあたりの年齢になると、多くの人は恋人がほしいと思うようになるのではないか。彼女の心にも恋人がほしいという気持ちが芽生えつつあった。

 そして、ちょうど彼女は恋に落ちた。

 相手は同じサークルの一つ上の先輩だった。テキパキとサークル員に指示を出し、場を仕切る姿に彼女は心を奪われた。

 どうにかして、あの先輩と付き合えないものかしら。

 毎日のように先輩と仲良くなる策略をぐるぐると考えていると、彼女の頭にある一つの考えがひらめいた。

 その日はサークルの飲み会であった。

 彼女は化粧をした。いつもならここで化粧の完成というところで、彼女は自分の部屋の壁にかかっているポスターを見つめた。そして、アイライナーで女優のほくろと同じ位置に黒い点を描いた。鏡に向き直って、にっこりと笑顔の練習をしてみる。鏡に映っているのは、女優には到底及ばないものの、妖艶な微笑みを浮かべる女で、鏡の中の自分に彼女は満足した。

 飲み会で、幸運にも彼女は意中の先輩の隣の席に座ることができた。

 一年生? 名前は?

 優しくて気配りのできる彼は隣に座る気心の知れた同期に話しかけるようなことはせず、一年生である彼女に話しかけた。

 先輩に話しかけられ、初め彼女は緊張していたが、時間が経つにつれ自然に受け答えができるようになっていった。

 会話が弾んできたころ、思い切って彼女は言った。

 まだこのあたりのお店とか、どこが美味しいか分からなくて。今度、美味しいお店連れて行ってくれません?

 いつも自分がうっとりする、あの女優の微笑みを意識して、彼女は上目遣いで先輩を見つめながら、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。

 先輩の息を呑む気配が彼女のもとにも伝わった。

 いいよ。空いてる日にち後で伝えるから、連絡先教えてくれない?

 はい。

 嬉しさのあまりはしゃぎたくなるのを堪えて、彼女は微笑みを継続させた。彼女の微笑みは、化粧で描き足したほくろのおかげか、あの女優に似た色気があった。

 先輩と会うとき、彼女は決まって右目の下にほくろを描くようになった。

 デートを一回、二回、三回……と重ねていくうちに、彼女は先輩から告白された。

 付き合おうか。

 はい。

 このときも彼女は飛び上がりたくなるような衝動を抑え、女優のようにゆったりと微笑んで先輩の告白を受けたのだった。

 その日は突然やってきた。

 彼女は先輩と温泉に来ていた。彼女にとって、これが恋人との初めての宿泊だった。

 初めての体験に舞い上がったのか、温泉に浸かって気が緩んだのか、彼女はほくろを描くのを忘れてしまった。

 あれ、ほくろがない。

 部屋に戻ると、先輩が言った。

 先輩の言葉に、彼女はその場に立ち尽くした。

 あのほくろがあったから、私は先輩と付き合うことができたのに。ほくろが偽物だとばれてしまった今、私は先輩に捨てられてしまうんじゃないか。

 彼女はひどく動揺した。そして、別れの場面が頭に浮かんで、今にも泣きだしてしまいそうになった。

 大人っぽい君が素敵だと思っていたけれど……。

 彼女は次に来る言葉が恐ろしくて、手のひらで耳を塞ごうとした。

 今の君もなかなか好きだよ。かわいらしくて。

 先輩の言葉に彼女は弾けんばかりの笑顔になった。ほくろのない彼女の笑顔は十八歳のそれよりも、ずいぶん幼く見えるものだった。

 先輩の唇が彼女の右目の下にそっと触れた。

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