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高梨沙羅選手と寅さん

 スキー・ジャンプ競技のオリンピアンである高梨沙羅選手は、2月7日の「北京2022 」冬季五輪混合団体戦の1回目にみごとな大ジャンプを跳んだ。しかし、そのジャンプは失格と判定され、それが主因となって、日本チームは、高梨選手の2回目のジャンプにおける再度の大跳躍にもかかわらず4位の成績に終わり、「メダル」を逸した。
 高梨選手のジャンプが失格と認定されたのは、ジャンプ終了後の抜き打ち検査で判明したある事実ゆえで、それは着用していたスーツが規定寸法より大きかったという、思いもかけないものだった。同様の理由でほかに4人の選手が失格を宣告された、と伝えられる。
 規定よりも大きなスーツは、規定内のスーツにくらべ、より大なる空気を呼び込んで、より大なる揚力を生じさせるのでフェアではないというのが理屈だ。高梨選手も、そしておそらくは他の4選手も、各自の国の名誉をもかけた競技大会で、あえて不名誉きわまる不正手段に訴えることはかんがえにくいとはいえ、高梨選手の場合は、太もも部分が2センチメートルほど大きかった、と報道された。その判定にいちばんおどろいたのは、ほかならぬ高梨選手であり、かの女の着用スーツの管理担当者をふくむ日本チームの面々であったにちがいない。
 そして、翌8日の夜、僕にいわせれば、ひとつの事件が起きる。高梨選手が、「日本チーム皆んな(原文ママ)のメダルのチャンスを奪ってしまったこと、そして、今までチームを応援してくださった皆様、そこに携わり支えて下さった皆様を深く失望させる結果となってしまった事、誠に申し訳ありませんでした」という謝罪文を、全面を黒く塗りつぶした画像とともに、みずからのインスタグラム上に投稿したのである。
 かの女はつづける。
「私の失格のせいで皆んな(原文ママ)の人生を変えてしまったことは変わりようのない事実です。謝ってもメダルは返ってくることはなく責任が取れるとも思っておりませんが今後の私の競技に関しては考える必要があります。それ程大変なことをしてしまった事深く反省しております」と。
 なんと深刻にして悲愴なる言であることか。失格になってしまったせいで、多くの人を失望させただけでなく、少なからぬ人の「人生を変えてしまった」ことをふかく悔悟している。取り返しのつかない過ちを犯してしまった、と。
 ところで、この「謝罪」事件は、その事件がおきる2、3週間前の土曜日の夜に、BSテレビ東京で観た映画のワン・シーンを想起させた。その映画は、昨年来、BS7チャンネルで、土曜の午後6時半から繰り返し放映されているデジタル・リマスタリング版の、山田洋次監督・渥美清主演による全48作の映画シリーズ『男はつらいよ』(1969‐1995)のなかの第15作、『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』である。
 1975年夏に公開されたこれでは、寅さん(渥美清)と、一所定まらぬドサ回りの歌手リリー(浅丘ルリ子)と、そして、寅さんが青森で出会った蒸発中の悩める大企業のサラリーマン重役の兵藤謙次郎(船越英二)が、一緒に旅をしている。兵藤を帯同して青函連絡船で函館に渡った寅さんは、そこで、あろうことか、ひそかに思いを寄せているリリーと偶然の再会を果たすのだが、あてどない旅の身の上のリリーはリリーで、寅さんに寄る辺を見いだしたのか、兵藤・寅さんの2人組に合流する。こうして、行くところも帰るところもない3人は、一見気ままな、しかし、そのじつ、踊りたいとはかぎらない踊りを踊らされる風まかせの、あてどなく舞い落ちる木の葉にも似て、抗いがたい運命にもてあそばれるように3人旅をはじめたのだった。
 そして運河の街、小樽にやってくるのだが、そこで感慨深げに夕暮れの運河を眺める兵藤は、「ここは30年間、僕が夢に見た街ですよ」と、告白する。学生時代に知り合った初恋の女性が小樽の出身で、その人はいまも小樽にいるはずだという。しかも、その人は「ひょっとしたら僕が生涯でいちばん愛した人なのかもしれませんねえ」といい、「僕はこの街に来たくて旅に出たのかもしれないなあ」と、つぶやくのだった。
 こうして一行は、兵藤の初恋の人探しをはじめるのだけれど、それは、すでに結婚して子どももいるというその人の「幸せな姿」を垣間見たい、という兵藤の願いをかなえるためだった。しかし、探し当てた家に、その女性・堀田信子はいなかった。2年前に夫を亡くして引っ越した信子は、そこからほど近い町で小さな喫茶店を営んでいるのだと近所の人がいう。兵藤は寅さんとリリーとは波止場で落ち合うことにして、ひとり、その喫茶店「ポケット」に向かう。
 信子が立ち働く「ポケット」のカウンター席に座った兵藤は、しかし、かの女に話しかけることはできない。もう忘れられているにちがいない、とおもったのだ。そうして、ことばも目も交わすことなく、逃げるようにして店を後にする。「しまった、カバンを忘れた」とおもって振り返ると、そこに、そのカバンを持って「ポケット」から出てきた信子がいた。
「謙次郎さんでしょう。昔とちっとも変わらないのねえ」
 カバンを差し出して信子がいう。かの女は覚えていた。謙次郎は感激してこわばりつつも破顔するが、30年の月日をこえて、ほんの1、2分、路上で見つめ合うふたりは、おたがいの、あふれんばかりにあるはずのことばを呑みこむ。「もう一度、お入りになりません?」と、ようやくいう信子だったが、謙次郎は「どうぞお幸せに」と言い残して歩み去る。信子はその眼に涙を浮かべて見送った。
 波止場で寅さんとリリーに事の顛末を語った謙次郎は、「僕って男は、たったひとりの女性すら幸せにしてやれないダメな男なんだ」と、半泣きして慨嘆するのだが、それを聞いたリリーは、「幸せにしてやる? 大きなお世話だ。女が幸せになるには男の力でも借りなきゃいけないとでもおもっているのかい? 笑わせないでよ」と啖呵を切る。
「でもよお、女の幸せは男しだいっていうんじゃないのか?」(寅さん)
「へえ、初耳だねえ。あたしはいままでに一度だってそんなふうにかんがえたことないね。もし、あんたがたがそんなふうにおもっているのだとしたら、それは男の思い上がりってもんだよ」(リリー)
 ここで高梨沙羅選手のインスタ投稿に戻る。
 謙次郎と寅さんにたいするリリーの、啖呵を切るがごとき批判は、ひとつは女というものが男に依存するほかない存在であるという男の思い上がり(セクシズム)にたいするものだけれど、もうひとつには、だれかのおかげでだれかの人生が幸せになったり不幸になったりするという観念じたいにたいする批判でもある。
 人は失恋もするし、友を裏切りもするし、思いを寄せてくれる人の期待に応えられないこともある。「あなたを愛している」「あなたの活躍に期待している」「あなた、メダルをとってね」という呼びかけは、ほとんど呪いに等しい一方的なものにすぎない。そのことばは、暗黙のうちに、「あなた」の愛の、活躍の、メダルの、お返しを求めている。それは、その請求によって、「あなた」に呪いをかけている。神様への願掛けが、願いをかなえてくれない神様への恨みに転じるように、願いは呪いなのだ。
 僕たちは、だれしもが、だれかになにかの願いをかけられ、だれかになにかの願いをかける。その意味で、僕たちは「呪われ/呪う」存在であることをまぬかれない。高梨選手をして、「皆んなの人生を変えてしまった」という痛切な告白をさせたのは、そんな僕たちの「呪い」だったのではなかったのか。
「あんたが私の人生を変えてしまった? もし、あんたがそうおもっているのだとしたら、それはあんたの思い上がりってもんだよ」と、リリーの口真似をして、失意のオリンピアンにいってやりたい気持ちになったのであった。


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