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発達障害じゃなかったらよかったのに。

発達障害でも、楽しく生きている人がいるならば、
「良かったですね」と一言伝える。

わたしは、毎日毎日、
自分の特性のせいで、
思考は止められないし、
緊張が強い。

常に、不安で仕方がなくて、
落ち着いているように自分を見せたりすることを意識することに
エネルギーを使う事にも、
疲れた。

・・・
いや、
疲れている。

わたしは、1月から看護師の仕事に復帰した。
現場の看護師の仕事だ。

ひさしぶりに戻る、病院という場所。

患者さんとのやり取りは、
純粋に楽しく、
じぶんが誰か人のために何かをしたいという思いを純粋に持っていることにも気づく。

人と関わることは、看護師のじぶんにとっては
楽しい事。

日本語教師のじぶんにとっても、
目の前の人と関われるというのは、
楽しいこと。

病院で働くようになってから、
苦しいのは、
同僚の愚痴と、悪口だ。

わたしは、
言葉を流すことができない。

すべてを真面目に受け止めすぎてしまい、
それが、真に受けないで流すべきであろう場面でも、
本当の自分の感覚でいえば、
すべて真剣に聞いて、受け止めてしまう。

受け止めてから、
経験「知」として、
「ああ、このパターンは、冗談あるいは、単に気持ちを聞いてほしいだけなんだな」と、
気づく。

とにかく、一番近くにいる看護師が、
その現場20年。8年間そのセクションを仕切っているボスということで

彼女の気分で
その空間が支配されていることを理解した。

感情の塊といった彼女は、
入社後間もないじぶんに、
時間があれば上司の悪口、いかに軽蔑すべき相手なのかという、過去のエピソードを語り始める。

そして、私が担当することになった医師が、いかに裏の顔があり、ひどい人間かを上げ連ねる。

私の頭も心も、
悲鳴を上げている。

「聞きたくない!!!!」

しかし、わたしは
同情するフリ。というか、
聞いているフリ。

波風を立てたくないし、
ボスである彼女のご機嫌を取らないと、
恐ろしいことになりそうだと警報が鳴っている。

どうして、こうなってしまうのか。

しかし、自分もさすがに40年生きてきて、
さすがに自分が搾取されたり、
人から聞き役や壁として利用されやすい反応をしているのだと

なんとなく気づいてきた。

自分が不快になっているのも感じている。

彼女が不機嫌なとき、
わたしに診療中、小さな意地悪やしなくていい八つ当たりをしていることにも気づいている。

そのたびに、自分の自尊心がひどく傷つけられていて、
心にダメージを負っていることにも気づいてきている。
わたしは、苦しいのだ。
そんな扱い、されたくない。

新入社員で入ったとはいえ、ただの何もわからない新人ではない。
経験者採用であり、一人の人間だ。
軽く扱われていいわけではないし、
意地悪を言われるいわれもない。

私の前に入職した看護師は、1か月で退職したらしい。
原因は、彼女との関係だと、彼女自身が言っていた。

ASDの自分にも、うすうす感じるところはある。
なぜ、前職の看護師が1か月で退職したのか。

ひとつが嫌になると、「NO」の札を立ててすべてを終わりにするASD。


ゼロか100か思考の塊、それがASD人だと個人的に思っている。
私は、本能のままにものを見ると、本当にこれが顕著だ。

ひとつ嫌なことがあると、すべてが受け入れられないような感覚がある。
男女の関係でよくありそうな話だ。

ゼロか、100か。

人間関係においても、この考えが発動する。
相手をジャッジする場面ではなく、
被害妄想として表れることが多い。

どういうことかというと、
「Aさんは、感情をぶつけながら否定的な言葉を投げかけてくる」
こういった事実があったとする。

すると、
「じぶんにひどい言葉や態度をするのは、自分が嫌われているという事だ。」と、その人は自分を嫌っていると決めつける。

そうすると、その後のその人は、自分を嫌っている怖い人間としか思えなくなり、委縮してしまう。

何かが起こるたびに、
「この人は私だけに冷たい。もちろんそれは、私のことが嫌いだからだ。」
そう考える。

例え、そのひとがよい態度で接してきたとしても、
「嫌われているはずなのに、こういう事を言うというはずがない。
良い人のフリをしているんだ。いい人と思われたいのかもしれない。」
と、偏った見方をしてしまう。

ただしこちらも、その思考に支配され切るかというと、
「これは、ゼロか100か思考が発動している。」
ということを
うっすらと頭の片隅では理解している。

ああ、また白黒思考が前面に出て物事を捉えているな、
と気づくわけだ。

いちいち、
自分の監視カメラの映像を確認しなければならないような心境で、
(いわゆる客観視)

状況の把握にエネルギーを要する。

一方で、自分の中にモヤモヤと腑に落ちない感情が蓄積して言っていることは事実であり、
それが心を重く、暗く、ピリピリとさせている。

「このままにしていては、いけない」
そう感じる。

しかし、演じること以外で自分の身を守る手段をしてこなかったので、
今更他人の前で感情を出すとかは不可能だ。

完全にASDで、思ったことがすべて言えるように作られていたらよかったのに。

わたしは、本に出てくるASD孤立型の典型例のように、
周囲の人に対して思うことをそのまま口に出すことはない。

それができたならどんなにいいだろう、と妄想する。

劣等感の固まりすぎて、
ひどい扱いをされても、
それが当然のような気がする。
ひどい扱いを受けることが、
当たり前なんだという思い込みを、信じ切ってしまっている。

それがさらに悪循環につながることを、
心理士として知っているながらも、
相手を抑止するような行動も、
おどおどしてしまったり、
気を遣うことを止められない。

物事を、極端じゃなく広く客観的にはじめから見られる
定型発達人がうらやましい。

紙を丸めて作るメガホン。
発達障害人の視野というのは、そこから世界を見ているようなものなのだ。

視野は狭く、対象を片目でしか覗くことはできない。
興味があるものにフォーカスすることしかできず、
一度に多数の物をみることもできない。

丸めて作った筒から見える世界の情報に、すべてを集中されるよりほかない。


嫌われないことを目標にしないで、自分を守ることに全力をつくす。

これまで、自分は傷つけらるのがあたりまえの存在だと受け入れてきていた。

嫌われるのは当然で、軽く扱われることも。
それが当然だと受け入れてきた。

しかし、それは良くない事だ。

嫌われないことで、どんな良いことがあるのか?
その相手の人は、私という人間に機嫌を取ってもらい、
幸せだろう。

しかし私はどうなるというのだろう。

自分という人間は、
八つ当たりする先は、自分の子どもになってしまう可能性が高い。

大切な人をまもるために、
理不尽な扱いをされたら、
抗議するべきだ。

少なくとも、反応しない練習をしよう。

無視しよう。

あるいは、相手が欲しい反応は返さないように。

わたしは心理士だ。

カウンセリングを無料でしてやることはない。

女性同士の人間関係が難いとか、空気が読めないとか言っている場合ではない。

自分を守ってあげなければ。

自分をもっと大切にしてあげなければ。

今までは、一つが嫌になると、限界まで我慢して
その後はバッサリと相手を切って、関係断ちをしてその場を去ることで解決していた。

嫌になったら逃げだすのだ。
関係もすべてぶち壊して。

見方を変えて他の表現をするのならば、
ギリギリになるまでため込んでしまう、
という事でもある。

2024年は、そういうことはしたくない。
なるべく、持ち越すようなストレスのため方をしたくない。
自分のためにも周囲の大切な人のためにも。

周囲の人に八つ当たりしたくない。

いやな事を言われたら、無視。無反応。

人の悪口も、無反応。

そうしよう。


本当にありがとうございます!応援してくださる気持ちが本当に嬉しいです。「サポートをいただきました」の通知が、わたしの人生のうちの今日一日という日を幸せにしてくださいました。色々ありますが、あなたの一日も素敵なものになりますように。