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ジブリの少女たちは「男に負けない」「強い女」か——ジェンダー学の視点から

私は、小さな頃からディズニーやテレビアニメよりもジブリ映画を観て育ったジブリファンです。当時の憧れはナウシカでした。彼女のように、賢く勇敢で愛に溢れた人になりたかった。だから、この記事でジブリ作品や作成者を批判するつもりは全くありません。これは、馴染みのある作品をジェンダーのレンズを通して見るとどんなことが言えるかという実験です。特に私の子ども時代を象っていたナウシカ、ラピュタ、トトロ、もののけ姫、千と千尋について書こうと思いますので、もしまだ観たことがない方がいらっしゃれば是非ここで引き返してください。どれも大好きな作品なので、先入観なく楽しんでいただきたいです!
※見出し画像は公式サイトから。

個性的な「女」のキャラクターたち

まず気が付くのは、どの作品も印象的・個性的なキャラクターは多くが「女」だということです。

  • 風の谷のナウシカ(映画版)…ナウシカ、大ババ様、クシャナ、ラステル(ペジテの王女)、ラステルの母と身代わりになった少女、ナウシカを慕う風の谷の少女たち

  • 天空の城ラピュタ…シータ、ドーラ(海賊船長)、おかみさん(パズーの親方の妻)

  • となりのトトロ…サツキメイ、カンタの祖母、カンタの母

  • もののけ姫…サン、モロの君(山犬)、エボシ御前、トキ(タタラ場の女衆のリーダー格)、キヨ(山犬に夫を殺された復讐としてサンを狙い、アシタカを撃ってしまう未亡人)、ヒイ様(アシタカの故郷の老巫女)、カヤ(アシタカを慕う故郷の少女)

  • 千と千尋の神隠し…千尋、湯婆婆、銭婆、リン(油屋で働く千尋の姉御的存在)

もちろん、重要な「男」のキャラクターも登場しています。

  • ナウシカ…ユパ様、アスベル(ペジテの王子)、城オジたち、クロトワ(クシャナの側近)

  • ラピュタ…パズー、ムスカ、パズーの親方、ポムじい(廃坑の中で出会う老人)、ドーラの息子たち

  • トトロ…トトロ、ネコバス、サツキとメイの父、カンタ

  • もののけ姫…アシタカ、ジコ坊、シシ神、乙事主、ゴンザ(エボシの側近)、甲六(トキの夫)

  • 千と千尋…ハク、釜爺、カオナシ、坊(湯婆婆の息子)

こうして見ると、「女」には情熱的で、感情を溢れさせる場面が思い浮かぶいわゆる「濃い」キャラクターが多い一方、「男」の方は冷静沈着だったり物静かなイメージのキャラクターが多いのではないでしょうか。

少女を導く「男」キャラの存在

上で太字にしたのは、主人公又はヒロインとされる主要な「女」キャラと、彼女たちに寄り添い、冷静さを失った時に宥め導く役割をしている「男」キャラです。私にとって特に印象的なのは、冒頭で父親ジルが殺された際に激昂して剣を振り回すナウシカをユパが体を張って止めるシーン、サンがエボシを殺し損ねた後に瀕死のアシタカに剣を向けるシーン、そしてシシ神の死に際してアシタカに小刀を突き立てたサンをアシタカが抱き寄せるシーンです。いずれも、「男」の側は慌てることなく、我を忘れて攻撃的になっている「女」キャラを愛情深く諭しています。アシタカの「生きろ。そなたは美しい。」というセリフからは、二人のジェンダーが異なれば、従来の日本社会の感覚では同じようには成り立たないことが窺えます。この3場面ほど激しくはなくても、シータが終盤でパズーに飛行石を「海に捨てて」と言い、パズーが捨てるのではなく滅びの呪文を使うことを提案するシーン、メイが迷子になったことに責任を感じて泣き崩れるサツキをトトロが慰め助けてあげるシーン、両親と離れ油屋で働く生活で限界を迎えている千尋にハクがおにぎりを差し出し、千尋が号泣するシーンなども構図は似ています。全て、感情を抑えきれなくなっている「女」キャラを、冷静で判断力のある「男」キャラが保護し支えているのです。これらは、二元論について記事で紹介したような、理性や頭脳、自律といった特性が「男らしい」とされ、感情や心、依存が「女」の特性とされる社会通念を反映していると言えるでしょう。クロトワ、ドーラの息子たち、カンタと親方、ゴンザと甲六、坊のように「女」の尻に敷かれていたり駄駄を捏ねるお笑い要員のような「男」キャラもいますが、彼らは脇役に過ぎず、主要な「男」キャラは尊敬に値する「男らしさ」を持っているのです。

理想化された「少女」像?

あえて「少女」という言葉を使いましたが、主人公/ヒロインである「女」キャラは年齢設定が若いという特徴があります。(ジブリ関連の本はそれなりに持っているのですが全て日本にあるので)Wikipedia情報になってしまいますが、ナウシカ16歳、シータ12〜13歳、サツキ12歳、メイ4歳、サン15歳、千尋10歳とのことです。メイはサツキに面倒を見られる妹という立場なので置いておくとしても、他の5人はみな親に頼ることなく自分の意思でストーリーを切り開いています。芯が強く勇気がある上、人や自然への愛があり、甲斐甲斐しく世話をします。一方で、上で書いたとおり感情が溢れ「男」キャラに支えられる必要のある不安定さも持ち合わせている。愛情や優しさ、「母性」ともとれる面倒見の良さは「女性的」と分類されてきた特性であり、そこに「男性的」ではあってもそれらと矛盾しない芯の強さ、勇敢さという美徳を加える形で理想化されたのが彼女たちなのではないでしょうか。それも、純粋で汚れがないイメージの少女に投影されており、特にナウシカやシータ、サツキのように「そんなよく出来た子いないでしょ!?」という感想にも繋がるのです。その非現実味を緩和しているのが感情を抑えられなくなる瞬間の脆さ・幼さであり、「紳士的」な「男」キャラに支えられることで「女らしさ」が再確認されているのだと思います。

「女」の「無償の愛」と自己犠牲

「母性愛」「無償の愛」の象徴として、彼女たちが見せる自己犠牲・献身も注目に値します。最も際立つのはナウシカが王蟲の子と共に押し寄せる王蟲の大群の前に降り立つシーンでしょう。その他にも彼女は、危険を顧みず蟲に襲われる人を助けたり、城オジたちを村に帰すために自ら身を守るためのマスクを外したり、王蟲の子を運ぶ飛行ガメを銃撃されながら身を持って止めたりしています。シータはまずパズーを逃すためムスカの要求を飲み、暴走するロボット兵に縋り付いて攻撃を止めさせ、終盤でもパズーを逃してムスカと心中しようとします。サンも、躊躇いなくモロの傷口から毒を吸い出していますし、全滅を覚悟で人間と戦う猪神たちと共に命をかけて森を守ろうとしたり、乙事主がタタリ神になるのを身を挺して防ごうとしたりします。千と千尋の神隠しは千尋が両親を元の姿に戻すために困難を乗り越えていくストーリーですし、ハクを救うべく見せる献身も徹底しています。また、主要キャラ以外でも、積荷(巨神兵の胚)を燃やしてと言い残して死ぬラステル、ナウシカの身代わりになるラステルの母と少女、掟を破ってアシタカに護りの小刀を渡すカヤ、夫を殺された復讐としてサンに立ち向かうキヨ、タタラ場を侍たちの襲撃から守ろうと立て篭もる女衆、タタリ神になった乙事主からサンを取り戻し、首だけになってもエボシに復讐するモロなど、愛や正義のために自己を犠牲にする「女」たちが随所に登場します。
 一方、「男」キャラの自己犠牲として際立つのはアシタカが冒頭でタタリ神を退治するシーンですが、情熱に駆られるのではなく非常に冷静に矢を射る姿が特徴的です。その後、ヒイ様や村の男たちに対して「矢を射る時、心を決めました」といった発言をしています。アシタカは衝動的にタタリ神を討ったのではなく、神殺しの重大さを理解した上で、主体的に判断して行動したのです。このような理性的な判断の存在は、上記の「女」たちの自己犠牲に表立って説明されません。彼女たちは、メリットとデメリットを比較衡量するといった意思決定の結果ではなく、本能のままに迷いなく飛び込んでいる印象です。これは、「女」というのは愛するもののためなら自然と自己の犠牲も厭わずに行動するという理想化された「母性愛」「無償の愛」の反映とも言えると思います。
※猪神たち(「戦士」と呼ばれ、属性は「男」?)が人間と戦う場面は衝動的な後先を考えない自己犠牲に見えるかもしれませんが、「猪突猛進」という熟語に表れているような猪のイメージ、一族の誇りを最優先するというキャラクター設定から説明が可能でしょう。

悪役の「女」と「男」

ストーリーにおいて主人公たちと敵対するキャラクターについても、「女」の場合と「男」の場合で性質に差があります。この5つの作品の中で、(側近や部下ではない主体的な)「男」の悪役と呼べるのはムスカとジコ坊くらいでしょう。ムスカは徹底して悪として描かれており、自業自得で死にます。ジコ坊はアシタカには親切にしており、最後にアシタカの説得でシシ神に首を返したことで命が助かったことを認めてはいるようですが、人間の強欲でシシ神を殺し惨事を招いたことを心から反省しているようには見えず、村に残るといった描写もありません。一方、「女」の悪役については、序盤シータを追っていたドーラはすぐに愛情深く二人を見守るようになり、クシャナとエボシは最終的に主人公と和解、共存を選びます。湯婆婆と銭婆も本心が見えない節はありますが、銭婆は謝罪に来た千尋に助言して助け、湯婆婆も最後は不満げな顔をしつつも負けを認めています。クシャナは映画では登場シーンが少なくあまり取り上げられていませんが、部下に愛情を持って接し絶大な信頼を受けている指揮官であり、エボシが女衆や病人に見せる優しさ、湯婆婆の坊の溺愛なども「女」としての特徴でしょう。当初悪役として登場しても、根は「女らしく」優しく愛のある人物であり、だからこそ真摯に過ちを認められるという描き方がされているように思います。これが「男」であれば、敵対していた相手に助けられて和解するのはプライドが邪魔すると考えられ、描きづらいのかもしれません。

肝っ玉かあさん、姉御と長老

最後に、主人公/ヒロイン以外の「女」キャラの特徴について書きたいと思います。ドーラ、おかみさん、カンタの母、トキ、リンに共通するのは、「肝っ玉かあさん」や「姉御」と言われるようなパワフルで豪快な性格だということです。彼女たちは主人公/ヒロインよりも年上であり、「少女」の純粋さ・儚さは持ち合わせていませんが、弱い立場の者を守り慈しむ愛に溢れています。「少女」時代の脆さを乗り越えた、頼れる年長の「女」や「強い母」のイメージを映していると言えるでしょう。そして、大ババ様、カンタの祖母、ヒイ様や銭婆に投影されているのは、物知りでしばしば神的な力さえあり、若者たちを諭し護る長老のイメージです。ラピュタではポムじいが近い存在でしょうか。ポムじいが経験から知識を得ているのに対し、大ババ様、ヒイ様、銭婆はまじないや魔法といった人的でない力を扱うことができ、これは「男」の特性が知識や科学であるのに対し、信仰や非科学的なものといった「女」に割り当てられる領域を象徴していると考えられます。

まとめ

どれも内容が濃く見どころたっぷりの作品なのでかなり長くなってしまいましたが、馴染みのあるアニメでもジェンダーの視点から見ると色々な分析ができることがお分かりいただけたかと思います。結論として、これらの作品の主人公/ヒロインの少女たちはとても魅力的なキャラクターですが、既存の「男」「女」の観念を覆すものではなさそうです。「女」や「少女」に抱かれているイメージに、誰もが憧れる芯の強さ・勇敢さを加えていることで、同時代のディズニープリンセスの多く(美女と野獣のベルは例外かと思います)よりは自立した「強い女」を描いていますが、そこには必ず彼女たちを導く「男」のキャラクターがおり、感情を抑えきれなくなる脆さも抱えています。また、彼女たちの強さは「母性」ともとれる愛に裏打ちされたものであり、非常に理想化されていると言えるでしょう。だからこそ皆、アシタカがサンに言ったような「美しさ」——見た目ではなく、情熱を持って生きていることからくる美しさ——を備えていて、私がナウシカに憧れる理由もそこにあるのかなと思います。

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