Mr. Mustard

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何演(や)ろう~ピアノ弾き語り~Pt.4

とりあえず少し時間があるから家の電子ピアノでも弾こう、ってときに弾くのが、今はまずPiano Man、それからBridge Over Troubled Water、Your Songなど。 Ebの鍵盤音が出なくなってしまったのは痛い。特にこのYour Songの場合 それからHonestyとJust The Way You Are。 これでビリージョエル3曲、エルトンジョン1曲、サイモンとガーファンクル1曲の計5曲。曲がりなりにも最後まで弾けるかなという曲。 ただし、Just

    • 何演(や)ろう~ピアノ弾き語り~Pt.3

      どんな曲をやりたいのか?と言われると、弾いて楽しいということと、その曲が何か私自身のアイデンティティになりそうな曲ということになる。 その意味で、The ZombiesのThis Will Be Our Yearと、Lou ReedのSatellite Of Loveの2曲は外せないだろう。 弾いていて楽しいためには、その曲が好きであり、かつ、いくらかの難しさが必要に思える。 単にコード弾きの伴奏しかない曲は、弾いていて飽きてしまう。 その点、上に上げた2曲は、結構な

      • 何演(や)ろう〜ピアノ弾き語り〜Pt.2

        GenesisのFirth Of Fifthはイントロこそピアノがカッコよく印象的だが曲全体ではピアノがメインではなく、アレンジが難しそうだ。 そんな中、この曲をピアノ弾き語りアレンジしている人をYouTubeで見つけた。 こんな風にできたらいいなあ。 だが無理だろか? まあ夢として取っておこう。

        • 何演(や)ろう〜ピアノ弾き語り〜

          何演(や)ろう、って、まるで「何でも演奏できるけどその中から何を選ぼう」みたいな感じだが、違います。「何を演奏できるようになろうか」という、練習する曲をどう選ぶかってこと。 究極の目標は ジェネシスのFirth of Fifth、ストーンズのWe Love You、ピンクフロイドのSummer ‘68かな。これができたらカッコよさそうだし、弾いて楽しそうだ。 その前に、R.E.M.のEverybody HurtsとNightswimmingとElectroliteもできる

        何演(や)ろう~ピアノ弾き語り~Pt.4

          私家版経済学

          (1)自給自足 経済の究極の基本は自給自足。 (2)物々交換 しかし、自給自足では必要なモノやサービスがすべて賄えない。そこで他人からモノやサービスを提供してもらう必要がある。その対価として自分で作ったモノやサービスを提供しなくてはならない。そこで物々交換が必要になる。 (3)貨幣経済 しかし、物々交換では必要なモノやサービスを欲しい時に同等品のモノ・サービスをこちらが提供できるとも限らない。そこで、何らかの引換券を用いてそれを流通させることで、取引をスムーズに行うようにする

          私家版経済学

          優秀な者を高い地位につけ、大きな権限を持たせさえすればそれでよいのか。

          経営理論なるものを書き表すならば「優秀な者を高い地位につけ、大きな権限を持たせることである」にいい尽くされるということであるが、ここでこう疑問が出るであろう。 「その優秀な者(一人なのか複数なのかはさておき)を高い地位に就けたとしても、大多数の従業員、現場を回す一人一人のレベルが上がらなければ何も変わらないのではないか」 答えよう。ここでいう「優秀な者+高い地位」とは、現場を回す一人一人にプラスの影響を及ぼし得る程の優秀な者に、誰も逆らえないほどの高い地位を与えるというこ

          優秀な者を高い地位につけ、大きな権限を持たせさえすればそれでよいのか。

          「経営=人」ならば、「経営理論」というものはあり得るのか

          あり得ないのである。経営というものを理論化し一般化することはできないのである。 無理に経営理論なるものを捻り出すならこうだ。 「会社の経営のパフォーマンスを最大化するには、優秀な者を高い地位につけ、大きな権限を持たせることである」 これですべてを網羅している。そして、ダメ会社では、これができないのである。ゆえに、ダメ会社においては。なぜそれができないのか、どうすれば少しでもできるようになるか、それだけがその会社が取り組むべき課題になるのだ。他のことをやってる場合ではない

          「経営=人」ならば、「経営理論」というものはあり得るのか

          なぜ、「経営=人」であることを見抜けず、「経営=やること」であるという思い込みから脱却できないか。

          したくないからである。ダメな会社の経営者、経営陣、とにかくその企業のトップ数人、社内で最も大きな人事権を持つ、トップの数人が。 彼らは「経営=人」であることを見抜けないというより、それに気づかないふりをしていたいのだ。「経営=やること」であるという思い込みから脱却できないというより、そうでないと困るのだ。それゆえ、そうであるという前提で経営をする。「やること」を指示する。あるいは「やること」を考えさせる。 彼らにとっては、王権神授説のごとくあってほしいのだ。その地位に自ら

          なぜ、「経営=人」であることを見抜けず、「経営=やること」であるという思い込みから脱却できないか。

          「経営=人」であるということは

          自社の経営がうまくいっていないとする。同業の他社(ライバル会社)はうまくいっているとする。するとそのライバル会社は当社がやっていない何をやっているのかと思うだろう。当社もマネしてそれをやらねばと思うだろう。 しかしそれはナンセンスなのだ。その会社と自社の違いはやることの違いというよりは人材の違いである。やることを後追いてマネしたところで、まず同じようにはできない。同じレベルの人材が自社にはいないからだ。さらには優れた人材をもつその会社は、その優れた人材により、こちらの気づか

          「経営=人」であるということは

          畢竟、「経営=人」だが、その最たるものは

          畢竟、「経営=人」だが、その最たるものは何と言っても社長だ。 やはり経営は社長で決まる。その社長がダメなら経営もダメになる。社長が良ければ経営もよくなる。ならば社長以外の者は、「社長が誰であるか」という、自分にはどうすることもできないことに会社の命運をすべて委ね、自らは受け身の存在でいるしかないのか。そんなはずはない。 経営が社長で決まるなら、社長以外の者は、社長が正しく判断できるよう、社長が成果をあげられるよう、社長をサポートすればよいのである。 よくないのはすべて社

          畢竟、「経営=人」だが、その最たるものは

          畢竟、経営とは

          「何を」するかではない、「誰が」するかだ。何をやるか、その検討が大事なのではなく、やる人を誰にするか、その選別が大事なのだ。 「やること」を仮に正しく決めたとしても、それを「やる人」を間違えて配置すればその「やること」は正しくなされない。 逆に、「やる人」を正しく配置すれば、仮に「やること」を間違えて見繕っていたとしても、いずれその人は間違いに気付き、必ずや正しい「やること」を見出す。そしてその正しい「やり方」を見出すのだ。 となると、経営者は何をすべきか。そして何をす

          畢竟、経営とは