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タクシー


 「すみません。前の車、あの黒いSUVを追ってください」

 ついにこの瞬間がきた。“前の車を追ってください“。この言葉ほど、タクシードライバー冥利に尽きる目的地はない。

 「ええ、承知しました」

 タクシーの仕事に就く前は、電気技師として主に病院施設の電気設備の点検や修理を行っていた。病院では無数の電気装置が備わっており、どれも人の命を救うために必要不可欠なものばかり。自分は医師ではないものの、少なからず人の為に役に立っていると思っていた。
 しかしある日、自分が修理した無影灯が故障し、緊急を要する手術が難航したとしてその病院から担当を外された。自分だけの責任で済めば良かったのだが、会社としてその病院から契約を打ち切られ、私は所属する電気修理会社からも解雇処分を受けた。自分のせいで医療スタッフのみならず、患者の命すらも大危機にさらしてしまったのだ。その責任の重さから、医療関係に関わる仕事からは自然と離れていった。

 それからというものの、数十年間タクシードライバーとして自らの生計を立てている。工学系出身の自分はメカニカルなものが大好きで、300もの部品から成り立つ自動車を、自分の手で走らせる心地はたまらなく好きだった。電気技師の資格をよそにドライバー人生を没頭している。そして今、タクシードライバーにとってまるで映画のようなシーンが訪れてきたのだ。

 シフトをドライビングポジションに動かすと、自分の鼓動もトルク最大値まで高まっていく感覚があった。インナーミラー越しに後席を覗く。乗客の男はネイビーのロングコートを羽織っており、帽子やマスクもせず、探偵にしては少し目立つ格好をしているな、と感じた。

「こういう瞬間って、顔をしかめた探偵さんが乗ってくるなんて思ってましたが、お客さんは何やらそうでもなさそうですね」

「はは、探偵だなんて。残念ながら違います」

 前の車を追ってくれと言いながらも、とても冷静な男性だった。自分も浮かれている場合ではない。走り出した前のSUVを慌てて追いかけていく。

「お客さん、前の車に何か恨みでもあるんですか?」

あえて屈託無く質問を投げかけてみた。

「いえ、感謝するためにこのタクシーに乗っているだけですよ」

「感謝ねえ。善意でひっつき回るストーカーほど怖いものはないですよ」

前の黒いSUVは、まさか後ろにいるタクシーに付けられているとは思っていないようで、特にスピードも出さずにゆったりと安全運転を心がけている。

「運転手さん、タクシードライバーは長いんですか?」

「ええ、もうかれこれ15年ほど経ちますか。昔はタクシーが空車で走り回ることなんてほぼ無かったですが、最近はすっかりお客さんも減りましてね。今こうして料金メーターフル稼働させて車を追うなんて貴重な体験ですよ」

客の男は笑いながら「それはよかったです」と返事をした。

それから約1時間半、前のSUVを見失わないように意識を研ぎ澄ませながらも、自分が昔電気技師をやっていたこと、ヘマをして職を失ったことなどペラペラと喋りながらタクシーを走らせた。客も焦っている雰囲気もなく、依頼内容とは裏腹にとても有意義で楽しい時間を過ごしていた。

すると前の車は駐車場に入っていくのが見えた。ドライバーはふと何か既視感を覚えた。ここは。

「乗車料金、結構行きましたね。ありがとうございました、運転手さん。いや、電気技師さん」

そう言ってネイビーのロングコートを着た客は、メーターに表示された金額よりも多い金銭を差し出した。

「もしかして」とドライバーが呟くと、彼はにっこりと笑った。

「気づいてくれましたか。そう、ここはあなたが電気技師として勤めていただいていた病院です。そして私は、あのとき無影灯が故障したときに執刀をしていた医者です」

ドライバーの男は予期せぬ展開に呆気にとられていると、続けざまに客の男はこう話した。

「当時、あなたが病院にやってきて、あらゆる設備をメンテナンスする姿はよく目にしていました。今と違って、昔は本当に設備も古びていましたから、本当に感謝しきれません。例の件のあと、あなたが会社を解雇されたのを耳にしました。しかしあのとき、無影灯が故障しようがしまいが、絶対に成功不可能な手術と言われていたんですよ。ですが、むしろ私の神経はこれまでにないほど研ぎ澄まされました。火事場の馬鹿力ってやつですかね。とにかく、緊急時になるほど『絶対に成功させてやる』と燃えるのが医師なんです。むしろ成功したのは、あの故障のおかげといっても過言ではないんです。そのお礼じゃないですけど、とにかくあなたが罪悪感に苛まれていないか心配で」

ドライバーはまるで小説の中にいるようなふわふわとした気持ちだった。現実なのかまだ整理がつかない。それでは、追っていた前の車は。

「あ、ではなんで車を追っかけていたんだ?とお思いでしょう。今、運転席から青年が降りたのが見えますか。彼、当時の手術した患者です。あの手術がきっかけで医者を目指したそうで、今やこの病院に欠かせに執刀医です。彼がここに出勤するのはわかっていたので、別に追っかける必要はなくて、ただなんとなく『前の車を追ってくだい』と言ってみたかっただけです。騙してすみません。むしろ私が追っていたのは、当時お世話になっていた電気技師さん。あなたです」

ドライバーの男は15年間抱えていた胸のつっかえが取り払われた心地で、気がつけば涙を流していた。

「お釣りは結構ですよ」とその医者は告げ、さらに男はネイビーのロングコートを脱いでドライバーに渡した。

「これ、昔フランスの電気技師が着ていたワークコートらしいんです。この前、古着屋さんでたまたま見つけまして。これも何かのご縁かと。よろしければどうぞ。ささやかですが、私からのお礼の品です」

「私は何も。むしろご迷惑をおかけした身分なのに」

いいんです、と言って、医者はすぐさま病院へと姿を消した。

ドライバーは渡されたロングコートを制服の上から羽織り、再びゆっくりとアクセルを踏んだ。



「タクシー」 了

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