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【オト・コク】教科書に載ってる文章を国語教師が好き勝手に語る:中島敦「山月記」②

こんばんは。しめじです。

今夜は、「山月記」の話の続きです。
一応、今回もリンクを貼っておきます。

1 幻想的な物語空間

昨夜最後に少し触れましたが、この物語はまだ暗い時間帯に物語が始まり、夜明けとともに終わりを迎えます。

便宜上、ここから先の話を少しでも分かりやすくするために、全体を六つに分けてお話しします。

①主人公李徴の失踪までのいきさつ。

隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね~その後李徴がどうなったかを知るものは、誰も無かった。

②袁傪と李徴の再会

翌年、観察御史、陳群の袁傪というもの~叢中の声は次のように語った。

③李徴の独白1
(失踪している間、何があったのか、いかなる経緯で虎になったのか、虎となった後の胸中など)

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと~ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。

④李徴の独白②
(李徴がまだ記憶し、暗誦できる詩について。今の惨めな境遇について、即席で詠んだ詩。)

袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う~

⑤李徴の独白③
(なぜ自分は虎になったのか、という心当たり。臆病な自尊心と尊大な羞恥心)

時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。

⑥別れ

漸く四辺の暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処からか、暁角が哀しげに響き始めた。

さて、まず注目してほしいのは②の最後です。
状況としては、虎と化した李徴が、古くからの友人である袁傪に襲い掛かってしまいますが、寸での所で人間としての意識を取り戻し、草むらに身を隠します。そして思わず漏らした声からその正体を見破った袁傪が、草むらに身を潜める李徴に話しかけ、李徴が自分のことについて語り始める、というものです。

後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立って、見えざる声と対談した。都の噂、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊ねた。草中の声は次のように語った。

ここで一気に、我々読者は千二百年前の中国の深い森の中に連れ込まれることになります。
特に、「見えざる声」という一言。教科書でもしばしば取り上げられる語句ですが、授業で普通に触れるだろう内容から、もう少し掘り下げてみましょう。

まず、「見えざる声」とありますが、「声」は当然のことながら大気の振動なので見えません。見えないのは、草むらに隠れた声の発生源、つまり李徴の姿が見えていないことを指しているわけですが、よくよく考えるとこの一言はもっと広く物語の場面、状況を私たちに伝えています。

この物語の時間帯を考えましょう。
まだ真っ暗です。残月の光を頼りに進まねばならないような時間帯です。
そして、森の中。虎が普通に闊歩する原生林です。今みたいな、整えられた森ではありません。道はあるでしょうが、基本的には鬱蒼とした森を思い浮かべてもらえばいいと思います。

そこで、声を発すると何が起きるか。

森の中で声が反響するんですね。
ということは、声の発生源である李徴の姿が見えない、というだけではなく、発生源そのものが特定しづらい、真っ暗な空間の中に音が響いている状況
を思い浮かべたほうが、より現実的な場面の理解になると思います。

つまり、声の主が分からないまま、でも聞こえている。そういう、ファンタジーな物語空間が表現されていると考えると、この物語が持つ神秘的な雰囲気がより強く感じられるのではないでしょうか。

さらに言えば、この「山月記」、③~⑤の段落における李徴のセリフには「 」が付されていません。ついでに言うと、形式段落も分けられておらず、それぞれが丸っと一つの段落になっています。

誰が発しているかも不明瞭なまま、ただ声だけが響いてくる、そういった聴覚的な表現効果を担っていると考えてもいいでしょう。

だからこそ、この物語は夜明けで終わります。夜が明けるということは、周りが見えてしまうということ。真っ暗な森の中に響き渡っていた声は、森の木立に反響している音と言う現実性を手に入れてしまいます。現実に引き戻されるということは、虎になった人間と、それに再会を果たした旧友が、一匹の虎と、公用の旅を続ける高級官僚に戻るということ。なんだか切ないですね。

また、「羅生門」の時に、物語における夜は人にあらざるものが跋扈する時間だという話もしましたが、そう考えると、虎の姿でありながら人語を操り人としての記憶を保持している李徴は、やはり「超自然の怪異」であり、まぎれもなく人外となっていたという説得力も持つことになります。

たった一言、ほんのちょっとの状況説明かもしれませんが、それが浮かび上がらせる背景の豊かさには驚かされます。

2 「再び、その姿を見なかった」

ラストの一節です。

この物語も、また終わり方が印象的です。
羅生門と同様に、「視点の移動」という観点から考えてみましょう。

漢文調の文章に合わせて、基本的には客観的な三人称の文体が取られています。
「カメラ」のようなものは物語の中に明確に存在しておらず、登場人物の内面描写も実は出てきません。「驚いた」とか、その程度の簡単な心情表現が出てくるにとどめられ、自分の内面への言及は李徴のセリフの中のみです。

あとは、結構説明的な文が続きます。

ところが、最後の最後だけ、明らかに「カメラ」が袁傪についていきます。
そして、李徴と話したところから百歩ほどの所(50~60mくらいでしょうか)離れたところで振り返り、虎となり吠える李徴を見て、物語は終わります。

この、説明的な文章、客観的で冷静な登場人物との距離感に徹していた「語り手」が、最後の最後に李徴を置き去りにする

ここに、人間の心を失った李徴に対する深い余韻が生まれているように思うのです。
書き方としては、最後まで両者に対して同じ距離感で書くことも可能でした。あるいは、遠ざかっていく袁傪を見送りながら、虎が吠えるのを近くで見守って終わりでもよかったはずです。

しかし、語り手は虎となった李徴を離れ、袁傪に従います。
ここに、読者である「私」と、異類となった「李徴」の間にある隔絶を感じるわけです。

読めば読むほど、寂しく、味わいのあるラストです。
鋭利な文体と合わせて、美しい寂寞が漂う小説であると私は思います。


今夜はこれくらいにしておきましょう。
明日は、「山月記」の元ネタとなった中国の古典小説「人虎伝」も踏まえた話をしていこうと思います。

では、今夜はこの辺で。


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