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【オト・コク】教科書に載ってる文章を国語教師が好き勝手に語る:中島敦「山月記」

こんばんは。しめじです。

今夜は、「国語教師が教科書に載っている作品を勝手に語る」の二つ目を書きたいと思います。
今回も、性懲りもなく好き勝手に語ります。もちろん、普通に授業で扱うような内容から、余り授業では扱わなさそうな事柄まで。
前回同様、定期考査対策には使わないでください。×されても責任は取れません。

今夜は、中島敦の「山月記」についてです。
作者中島敦は、亡くなってから約80年経っていますので、「羅生門」と同様に青空文庫に本文が収載されています。
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作者 中島敦

この人もまた、中短編の名手と呼ぶべき作家です。
「全集」が出ていますが、いずれも全三巻程度です。
例えば夏目漱石の全集は、筑摩文庫で全10巻。岩波の出している全集(おそらくこれが決定版だと思いますが)が、小説で11巻、さらに日記や評論、俳句(正岡子規の友達でしたから、俳句も数多く残しています)、書簡などを加え、さらに総索引を足して合計28巻にも及びます。

まあ、漱石は日本文学史上最も被研究対象とされてきた作家の一人ですから、小説以外にも様々な原稿などが見出されているわけですから、多いほうなんですけど、それにしても中島敦の全3巻で収まるラインナップはコンパクトと言えるでしょう。

その理由の一つに、中島敦が早逝した人物であったことが挙げられます。
33歳で亡くなっています。
ちなみに亡くなったのは1942年の12月のこと

この「山月記」、「文字禍」という作品とともに二つ合わせて「古譚」という表題を付されて「文學界」という今も続く由緒ある文芸誌に掲載され、これが中島敦の所謂「デビュー作」となったわけですが、これが1942年2月です

つまり、彼が文壇にいたのはたったの10ケ月ということになります
他にも「名人伝」「弟子」「李陵」など、中島敦の作品と言われて思い浮かべるだろうこれらの作品は、いずれも中島敦の死後発表されたもの。
「李陵」に至っては、中島敦は題を付していなかったとされています。

無論、そのずっと前、学生のころからの習作を含めれば、中島敦が小説を書いていた期間は長いわけですが、それが世に認められて、専業作家になったのは「山月記」掲載の半年後、8月のことです。それまで、教師をしたり、パラオ南洋庁職員をしたりしていました。

作家としての活動期間はそれだけしかありませんが、教科書に載るという形で今日まで名が残るというのは、すごいことです。
また、作品も、いずれも「珠玉」と呼べるものばかり。個人的には「山月記」よりも「文字禍」の方が好きですが、どの作品も素晴らしいです。
もし、近代文学にも手を出してみたいけど、あまり長いのは身構えてしまって…という方は、中島敦を入り口にしてもいいかもしれませんね。

ところでこの中島敦、筋金入りの漢学一家で育ちます。
祖父は中島撫山という儒学、漢学者。父もその影響を受けて中学校で漢学を教えています。子どもの時から漢文が身近な環境で育った中島敦も、横浜で教師の職を得ます。

彼の作品の、研ぎ澄まされた鋭利な文体は、おそらく、最小限の字数で合理的に物事を伝えようと進歩を遂げた漢文の影響が大きいのではないでしょうか。
(ちなみに、「漢文」は書き言葉です)

そんな中島敦の「山月記」の中で一番好きな文はこれです。

時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹幹を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。

李徴が核心的な独白に入る手前の一文です。
次で書きますが、この物語は未だ暗い未明に始まり、夜明けとともに終わりを迎えます。
(私が一番好きな日本の小説の一つとして挙げた池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」が、「夜明けから物語を始めよう」で書き出されることを考えると、この夜明けで終わる物語という構造もとても印象的ですね)

光冷ややかな残月や、暁の到来を告げる冷風が、物語に、つまりは李徴に残された時間の残り僅かであることを読者である私たちに伝えてくれる一文です。
物語の構造が見えてから、改めてこの一文を持つと、この一文と、それが描く光景の切なさが一層際立ちますね。

さて、今夜は作者の紹介しかしていませんが、このくらいにしておきます。
明日以降、もう少し物語の内容にも踏み込んでいこうと思います。

では、今夜はこの辺で。

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