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類は友を呼ぶ

どんな状況でも自分を見失わずに自己肯定感を高く持って生きていくにはどうすればいいか。
その効果的な方法は自分を知ることだと思う。
人生相談で「人は性質は変えられないけど性格は変えられる」というアドバイスを聞いたことがある。
「人生山あり谷あり」だから人間の性格はその時々で変わるかもしれないが、根本の性質は変わらないと思う。
僕が過去に実践した方法を紹介しよう。
まず、ノートに自分が生まれた年から今までの年とその時の年齢を書く。
そして、それぞれの年に起こった自分に関する出来事を思い出せるだけ書く。
それとは別に思いつく限りの自分の好きなものをたくさん書き連ねる。
曲でも映画でも本でも何でもいい。
そして、静かな環境に身を置き、そのノートを見ながらとことん自分と向き合ってみる。
それを実践したあとは今まで以上に自分に自信を持てるようになるかもしれない。


僕は「類は友を呼ぶ」という哲学を強く信じている人間だ。
なぜなら普通の一般人よりこの言葉を痛切に感じさせられるような経験をたくさんしてきた。
だから、これについては自信を持って言える。
普通の人であれば一生のうちに働く職場の数というのはせいぜい片手で数えられるぐらいか多くても両手で数えられるぐらいではないだろうか。
しかし、僕は十人の人が両手で数えても全然数え切れないほどの職場で働いた経験がある。
理由は色々ある。
経験してきた仕事の種類、自分の性格や過去、人間関係などだ。
そういう人間だからこそ言えることもある。
以前、ある二つの会社で同じような仕事をしてはっと気がついたことがあった。
両方とも同じような環境の職場だったが、働いている人間の性質が全然違っていたのだ。
両方とも女性が多く働いている職場だった。
作業はピッキングというもので、客が注文した商品の名前やロットナンバーや数が書かれたリストを見ながら、それらを商品が保管されている棚から探して集めるというものだった。
Aの職場の女性の性格は、穏やかで落ち着いていたがどことなく冷たい印象があった。
Bの職場の女性の性格は、ちょっと気が強いところがあって声も大きく、ミスをしたらうるさく注意された。
僕はなぜこのように似たような性格の人間が集まるのか不思議に思った。
職場というのはその環境に合う人間は長く留まって合わない人間は辞めていくのが自然だから、初期の段階である程度似たような性質の人間が集まったのだろう。
それにはその職場の上司の性質や会社の体質など色々な理由があると思う。
そして、ある程度似通った性質の人間が集まった段階で、それらの人間とは違う性質の人間が入ってきた場合、違う性質の人間はその環境に馴染めず、また、周りからも冷たく扱われる可能性がある。
仮にさっき書いたAの職場にBの職場の人が入った場合、また、Bの職場にAの職場の人が入った場合を想像してみたが、おそらくその人はあまり馴染めないのではないかと思わざるを得なかった。
職場に似通った性質の人間が集まる理由はほかに、そこで働いてる人間の性質が職場の環境に適応するために変わるということもある。
一言で言うと、「会社の体質に染まる」ということだ。
これから就職や転職を考えている人には職場が自分に合っているかどうかは求人内容や会社の情報だけではわからず、結局は実際に働いてみた時の肌感覚でしかわからないということを強調したい。
幸か不幸か自分に合った職場で働けるかどうかは運が大きく関係してしまうのだ。

僕は工事現場で働く作業員や漁業に携わっている漁師などのブルーカラーの人々と接してきた経験があって素朴に疑問に思ったことがあった。
なぜそういう人間は性質や言葉遣いが荒っぽいのかということだ。
僕の経験から導いた結論を一言で言うと、「細かさや丁寧さを必要としない仕事の性質」から来ているということだ。
例えば、スコップで地面を掘ったり、網を力一杯引く作業では細かいことはどうでもいい。
そういう普通より過酷な肉体労働を毎日のようにやっていれば繊細さというものが邪魔になってきたり、几帳面さも失われていったりするのかもしれない。
また、声が大きいのはいつもうるさい環境で働いているために日頃から大きな声を出しているためと思われる。
そういう現場で何か考えごとをしていたら、「なにぼけっとしてんだ!」などと怒鳴られたこともあった。
工事現場でも例えば現場を監督する責任者や電気工事士のような人、漁業の人でも市場で競りに携わっているような人にはあまり荒っぽさというのは感じられないのだ。
昔、漁師の人に二人以上は乗れないような小さな船に乗せてもらい沖まで連れて行ってもらったことがあった。
遠くに岸が見えたが、それ以外は周りを見回しても水平線だった。
天候は良かったが小さい船なので揺れは激しく、初めての体験だったこともありひどく船酔いしてしまった。
静まり返っているなかに船に打ちつける小波の音やたまに遠くでかもめが泣いているような音しか聞こえない。
僕は同乗者がいるにも関わらずひどい孤独感を覚えたが、同時にある感情を抱いた。
広い大海原にいると、何か今まで社会であくせく生きていたことやつまらないことばかり気にかけていた自分がバカらしく思えた。
青函連絡船がまだ営業していた時に乗ったことがあったが、大きな船に乗っていた時には感じられない感覚だった。
そして、なぜか自然と歌を歌いたくなった。
その歌はポップスやロックのような歌ではなく、なぜか演歌のような節回しのある歌だったのだ。
漁師の人に演歌が好まれることや歌詞に漁業に関することが多く登場する理由を僕は理屈ではなく肌で感じたのだ。
この世に意味のないことなんてないのだと思った。
若い頃、映画などに登場する悪役がいかにも悪人ヅラしているのは一種の演出だと思っていた。
しかし、多くの犯罪者と接する機会があって思ったことは、そういう人達の外見には何となく人相の悪さが感じられることが多かったことだ。
もちろん犯罪を犯した人間には様々な事情があったわけだし、すべてこれに当てはまるわけではないが、そういう傾向があることは明らかだという意味だ。
刑務所のような所はみんな同じ服を着せられるのでかえって一人一人の人間の個性が目立ってしまう。
もし普通の一般人と刑務所に収監されている受刑者を無作為に何十人か選んでみんな同じ服を着せ、その容貌を比べて見た場合、明らかに差があると思う。
柄が悪いと言っても、もちろん容姿のことだけを言っているわけではなく、その人が持っている顔つきや雰囲気や話し方など色々なことを含めてだ。
僕はそういう人間はそういう容貌で生まれたからそういう生き方になってしまったのか、または、そういう生き方をしているうちにそういう風貌になってしまったのか考えざるを得なかった。
アメリカ大統領リンカーンがある人を閣僚に登用したらどうかと進言された時、「私はあの男の顔が嫌いだ」と言ったエピソードがある。
進言した人が「彼はそういう顔で生まれたのだから自分の顔には責任はないはずだ」と言ったところ、大統領は「男は40過ぎたら自分の顔に責任がある」と言ったという。
大統領が言いたかったのは彼の容姿のことを言っているわけではなく、彼の風貌にそれまでの生き方のようなものが表れていたということのようだ。
しかし、持って生まれた外見と犯罪との因果関係についてはわからない。


人間は様々な場面で様々な顔を見せ合って生きている。
「自分は裏表のない人間だ」とか「自分は誰に対しても同じように接する」と思っている人はいるかもしれないが、決してそんなことはないはずだ。
他人に対して体裁を取り繕わない人間なんていないし、まったく差別しない人間もいないと思う。
仕事をしている人が職場で見せている顔は「職場で働いている自分」だ。
自分で意識していようがいまいがその職場で働いている自分を演じているのだ。
二人の友達がいたら、Aという友達と会っている時は「Aという友達と会っている時の自分」であって、Bという友達と会っている時は「Bという友達と会っている時の自分」だ。
ネットで活動している時は「ネットで活動している自分」だ。
意識してキャラクターを作っている人もたくさんいるが、素の自分を見せていると思っている人も決してそんなことはないはずだ。
うまく生きるにはそれぞれの場面でその状況に応じた自分の顔を使い分けるようにするといいと思う。
極論を言うと、僕は人気を当てに活動している人は誰もがアイドルだと思っている。
アイドルは英語でも"idol"と言うが、もとの「偶像」という意味から「アイドル」という意味が派生したらしい。
昔、会話のなかで誰かが「神は人間が作った」と言ったのを聞いたことがあった。
それは一つの真実だと思ったが、そう言い切ることもできないと思った。
人類が滅亡しても宇宙や人間以外の生命は存在するのだ。
神というのは何の形もない。
「神」という言葉がぴんと来ないなら「この世の創造主」と言ってもいい。
形のないものを信仰することは難しいので頭のいい人間は様々な形を作った。
土偶だったり仏像だったり、また、神が宿る場所として神社や寺や神殿を作った。
人間は弱い生き物だからこそ自分を超えた何かにすがろうとするのだと思う。
昔、ジョン・レノンが雑誌のインタビューで「ビートルズはキリストより有名だ」と発言して物議を醸し、レコードやポスターが焼かれたり、ローマ教皇がこの件について発言する騒動になったらしい。
キリスト教の信者は世界の人口の約3割と言われているから、世界的に有名になったバンドの彼が言ったことはそれほど大袈裟ではなかったのかもしれない。
『プラトーン』などの映画で有名なオリバー・ストーン監督がインタビューで映画で扱う題材についての質問を受けた時、「私が題材を選んだのではない。題材が私を選んだのだ」と言ったのを聞いたことがあった。
人間は日々様々な物事を自分で選んで生きている。
しかし、自分で選んでいるというのはまったくの主観的な解釈だ。
もっと客観的に空から人間社会を俯瞰するように見た場合、どう見えるだろうか。
世の中には様々な物事が存在していて、それらに引き寄せられるように人々が集まっているようなイメージが思い浮かぶかもしれない。
集まる理由は様々だ。
それぞれの人間の性格だったり、抱えている問題だったり、生きてきた過去だったりだろう。
同じ物事に集まる人間には何がしかの共通点があることは確かだと思う。
僕はこれを考えた時、別の話も思い出した。
『西遊記』という中国の小説に書かれている孫悟空とお釈迦様のエピソードだ。
孫悟空という主人公は「筋斗雲」という雲に乗って空を自由に飛び回る、俗に言う「やんちゃ」な性格の男の子だ。
悟空がお釈迦様に会った時、「私の手のひらから出られれば天界の主にしてあげよう。出られなければ修行をやり直しなさい」と言われた。
喜んだ悟空が筋斗雲で飛んで行くと、行く手に5本の柱が見えた。
悟空は「ここが世界の果てに違いない」と思い、そこにたどり着いたあかしに柱に名前を書き、小便まで引っかけて帰った。
しかし、お釈迦様は「お前は私の手のひらから出てはいない」と言って自分の指を見せたところ、そこには悟空が書いた名前と小便の跡があったという。
人間は自分の人生はすべて自分でコントロールできると思いがちだが、それは自分や人間の力を過信した傲慢な考えでしかないと思う。
僕自身、人生で自分の力ではどうしようもできないことに数多く直面してきた。
しかし、だからといって自分や人間の力にすっかり失望してしまってもいけないと思う。
人生というのは結局、「人知を尽くして天命を待つ」ほかないのだと思う。
人生で失敗したり、道に迷ったり、途方に暮れることもあるかもしれないが、所詮人間のやることだから完全無欠でないのは当たり前だ。
自分ができる範囲で精一杯生きることが大事だと思う。
僕が「生きる」ということをどれだけ語るより、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』という映画を観たことがなかったらぜひ観てほしい。
どんな困難な状況でも決して希望を失わずに生きることがいかに大切かを教えられるはずだ。

もし人生でこれからの進む方向に迷ったら、「心中」という言葉を思い出してほしい。
ここで言う心中とは男女が一緒に自殺することではなく、「残りの人生を何と運命をともにすべきか」ということだ。
組織だったり仕事だったり趣味だったり、自分にとって残りの人生を賭けてもいいものは何か考えてみる。
僕には読者一人一人が今どういう状況で生きているのか知らない。
因果応報という言葉を辞書で調べると、「過去における善悪の業に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること」とある。
過去は変えられないが、未来は現在の行いによって変わる。
今の意識をより良い方向に変えることで未来もより良い方向に変わるのは確かだ。




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